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第5章(3)

 そして、九月半ば。
 採用されて、ちょうど一年経った。
「明日にでも、帰ろうと思います」
 私は東の対を訪れ、花散里に言った。
「急に、どうして?」
 彼女は驚いていた。
「玉鬘も見つかりましたし、私の仕事は終わりました」
「相変わらず本物は手がかかるから、できればもう少しいてほしいわ。……でも仕方ないわね。帰るべき所があるんだから」
「やりたいこともやっと見つかりましたので……。お世話になりました」
 私は頭を下げた。
「……寂しくなるわ。本物には言ったの?」
「ええ、納得させるのが大変でしたけど」
 私は昨晩の玉鬘の荒れ様を思い出して、苦笑した。
「そう。じゃあ、今晩はお別れの宴を開きましょう」
 花散里は立ちあがった。
「そんなつもりで言ったんじゃありません」
「何水臭いことを言っているの。一年も一緒にいたのよ。夕霧も宰相の君も、右馬の助も呼んで、パーッとやりましょう! それじゃあ、早速用意しなきゃ」
 花散里は、片目をつぶって見せた。

 その夜、ご飯やお菓子を食べ、お酒も飲みながら、たくさん話をした。右馬の助はほんのちょっぴりしか飲んでいないのに、真っ赤な顔をしていた。酒豪に見えるのだが、弱いのだ。案外夕霧が強い。花散里もかなりいける口だ。私はほどほど。
「最初はどうなることかと心配したけどね。歌は暗記できないし、和琴も下手だし、ほとほと困ったわよ」
 花散里が、笑いながら言った。
「でも最後までお姉さまには、浮いた噂の一つもなく終わりましたね」
 夕霧がにやにやしていた。「やっぱり柏木でも紹介しておけばよかったかな」
「浮いた話なら……」
 右馬の助が言いさして、意味深に片方の眉をあげた。夕霧が扇で手を打った。
「あ、ありましたね。小侍従とは! あの時のお姉さまの格好といったら!! 片袖とれちゃいそうだったし、顔色は真っ青で」
 右馬の助は腹を抱えて笑っている。
「その話はやめて~!」
 耳をふさいで叫ぶと、みんなどっと笑った。
 玉鬘探しの苦労話や、源氏の君の悪口などで盛りあがって、私の退職パーティは夜更けなった。
 最後に私が染めた布をみんなに贈った。どれも納得がいく色が出るまでやり直したものだ。
 夕霧には、少し大人っぽい濃い縹色(はなだいろ・藍色)、花散里には桜色、宰相の君には茜、右馬の助は丁子染め、源氏の君には紫。源氏の君にはもちろん内緒だが、花散里が着物に縫い仕立ててくれるそうだ。いつか袖を通してくれる日もあるだろう。
「いろいろありがとう。夕霧のお蔭で結論が出たわ」
 夕霧にそう言って布を渡したら、「ありがとう」と言ったきり、黙って涙ぐんでしまった。
 私も涙が零れそうだったけど、
「やだな~、しんみりしないでよ!」
 と言うと、夕霧も涙を拭いて笑った。宰相の君も赤い目をしていた。
「素晴らしい出来よ。裁縫では劣等生だったけど、染めは私の一番の弟子よ」
 花散里が誉めてくれ、私は誇らしくて嬉しかった。

 一人になってから、私は蔀を上げた。もう月はかなり西に傾いている。風がお酒で火照った頬に心地よい。虫の音がひそやかに聞こえてくる。
 脇息に寄りかかり、そのままじっと朝になるのを待っていた。が、いつの間にかうたた寝をしたようだった――。


 我に返ると、あたりは蛍光灯の光で眩しい。ハッとして見まわすと、かび臭い事務所。私は平安堂の応接室に座っていたのだ。
「お疲れ様でした。無事、玉鬘も見つかりましたね」
 安藤さんがにこりと笑って言った。
「出勤簿に判をお願いします」
 と言われて判を押したが、一個しか押すところがない。
「こっちの世界では一日でした」
 安藤さんは、言った。
 長い長い夢を見ていたみたいだった。
 私は、家へ向かって歩き出したが、足元がふらついた。足と靴が全く馴染んでいない。
 蒸し暑い夜だった。ちょうど平安堂に入った時と同じような。
 額に汗が滲んで、ハンカチを取り出そうとしたら、ポケットから何か折り畳んだものが出てきた。 朝焼けのような色の薄様に、文字が書かれている。花散里の手跡だった。

   わかれてふ 事は色にもあらなくに

 今となっては懐かしい、古今和歌集の離別歌の上の句だ。
 別れというものは色でもないのに、どうして色が布に染みるように、心に沁みて、辛いのだろう、という意味だ。
 歌の後に、メッセージがあった。
 「私も私なりに、この世界で、自分にしかできないと信じることをやっていきます。
 お元気で。お互いに頑張りましょう」
 懐かしい香りが、仄かに手紙から立ち上った。


 あれから、半年。
 私は今、草木染めの職人の弟子をしている。下働きでお給料はあるかないか、有休なんてとんでもない。でも今自分のやっていることは間違っていないと思える。師匠の手元を見ているだけでも勉強になるし、刈安などの草を刈り取ったり、材料を刻んだりする肉体労働すら楽しい。花散里の教えてくれたことの一つ一つが、今役に立っている。いつか、職人として一人前になったら、源氏物語のイメージで色を染めてみたい。
 あれ以来、どこを探しても、平安堂は見つからない。
 迷っている時、現れるのかもしれない。
 もし、あなたが目の細い平安美人で仕事のことで迷っていたら、平安堂は次はあなたの前に、ある日出現するかもしれない。 

                                         (了)

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第5章(2)

「話が違うわ!」
 本物の玉鬘が、東の対に足音も荒く乗り込んできたのは、私が花散里と二人で夜食の湯漬けや果物を食べてくつろいでいる時だった。
「源氏の君のどこがいい人なのよ。ただのやらしいオッサンじゃないの!」
 玉鬘の目は吊り上り、汗で額髪がぴったりと張りついている。
「確かに源氏の君は悪いお心癖のある方だけど、何かあったの?」
 私が聞くと、玉鬘はジロリと私を見た。
「私には敬語を使ってちょうだい」
「申し訳ありません」
 私はむっとしたが、頭を下げた。
「和琴を教えてもらっていたのよ」
 玉鬘は勧めもしないのに、むしゃむしゃと果物を食べながら、話し始めた。
「そしたら『そこはこういう風に』とか言っちゃあ、一々手を取るの。で、やらしい目で私を見るのよ。あー、汚らわしいっ!」
「源氏の君に失礼なことはおっしゃらなかったでしょうね」
「言わなかったわよ。でも、今度あのオジサンが来たら、あんた変わってよね。私はまっぴら。あんなオジサンに傷物にされて堪るものですか!」
 玉鬘は噛み付くように言い捨てて、戻って行った。でもしっかりと果物は完食していった。
 ずっと黙っていた花散里が、深深と溜め息をついた。
「あの人を教育し直すのは、大変だわ」

 次の日から、私はまた玉鬘の身代わりをするはめになってしまった。
「玉鬘さまには手を焼いていますわ」
 二人きりになると、宰相の君はこぼした。
「人を顎でこき使うし、偏つぎや貝合わせでも負ければ怒り出しますしね。他の女房も、姫君は人が変わったみたいと噂しております。公達からの文のお返事も、反古のようなものを平気で出されたり……。でも」
 宰相の君はくすりと笑った。
「本物になって、一人だけ喜んでいる人がいますわ」
「ええ? 誰が」
「右大将ですわ。玉鬘さまのお好みらしいのです。色よい手紙に、右大将はすっかり舞いあがっているんですよ」
「右大将ねえ……」
 玉鬘は、マッチョな男がタイプなのかもしれない。
「玉鬘さまは、『なんたって出世頭だもの。へなへな男よりよっぽど頼りになりそう。先妻や子供は目障りだけど、私が正妻になれば先妻の父親が両方とも引き取ってくれでしょ』なんて言ってましたわ」
 物語では、玉鬘は右大将に襲われて、強引に妻にされてしまうのだ。それなら、彼女も気に入っている方が余程ハッピーではないのか。先妻さんには悪いのだが。
 しかし、本物の玉鬘がこんな人だったとは、まさに『想定外』だった。

 本物と入れ替わってから一週間後、源氏の君が久しぶりに西の対に現れた。
「この間は気分でも悪かったの? ものすごく機嫌が悪かったけど」
 源氏の君は怯えたように私の顔を見た。本物は一体どういう態度をとったものやら。
「頭がひどく痛かったものですから、失礼をいたしました」
「今日は大丈夫? 気分が悪くなったらすぐに言ってね」
 源氏の君はそう言って、和琴の稽古を始めた。源氏の君の教え方も、丁寧でわかりやすい。興が乗ると、一曲弾いてくれるのも面白い。
 こうやって習うのも、玉鬘が見つかった今、あと何回あるのかしらと考えると、しんみりした気分になる。
 すると、お尻にぞわっとした感触。
「痛っ!」
 源氏の君が悲鳴を上げた。
 半泣きで、手をさすっている源氏の君を見ながら、本当に懲りない男と思って、私は笑ってしまった。


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第5章(1)

 草深い中を牛車は進む。私は網代車(あじろぐるま)の物見窓を開けた。
 闇夜の上に霧がかかっているので、辺りの様子は全くわからない。右馬の助の持っている松明も、あまり役に立ってないようだ。
 やつした牛車で、人目を忍んで行く先は、宇治の邸だ。

 今日の昼過ぎ、花散里が西の対に渡ってきた。
「夕霧からの伝言よ」
 彼女は緊張した面持ちで言った。
「酉の刻に右馬の助が車で迎えに来るそうです。例の宇治の姫君が、本物らしいの。引き取られた時期といい、年齢といい、ぴったりなんだそうよ。仕えている者の人数や年齢も合っているし」
 夕霧が玉鬘に関する有力な情報を持ってきたのは、数日前のことだ。宇治に住んでいる僧侶の邸に、玉鬘らしい姫君が養われている、というのだ。右馬の助が詳しく調べに行っていた。 

 私は夕刻女房姿になり、六条院を抜け出した。惟正の姿では本物に会った時、話がややこしくなるし、姫君の衣装のままでは目立ちすぎる。
 使用人専用の通用門の少し離れたところに牛車が待っており、私が乗るとすぐに動き出した。暫く進むと、馬に乗った夕霧と合流した。
 宇治に行くには木幡山の険しい山道を越えていかなければならない。悪路のため、牛車の車輪が外れるかと思うほど揺れた。川の音が荒々しく聞こえ、突然の鳥の声が私を驚かす。
「もうすぐですよ」
 夕霧が馬上から声をかけた。
 やがてだんだん道が良くなり、霧も晴れてきた。門の前に篝火を焚いた邸が見えてきた。
 邸の主人は周防の国(山口県)の前司で、財力を蓄えて出家したらしい。もともと宇治に別邸があり、手を加えて住んでいるのだ、と夕霧が教えてくれた。
 夜中だったが、すぐに中へ通された。
「姫君には詳しい事情は伝えてありません」
 と主人は夕霧に言った。
「ただ、身を寄せるべき方が今日お迎えにいらっしゃる、とだけ」
 主人に案内されて姫君の部屋に入った。私は扇で顔を隠していたが、ちらりと見えたのか、主人は驚いた顔で私を見つめた。やはり姫君と私はよく似ているのだろう。
 姫君は部屋の奥に、几帳を隔てて座っていた。衣の裾が見えた。萩襲ねの袿に、つややかな長い髪がかかっている。
 主人が座を外すと、姫君はそろそろといざり出てきた。
 姫君は眠そうで、不機嫌な顔だった。
 本物の玉鬘だわ。
 一目見て、確信した。私と玉鬘はうりふたつだった。髪の長さと装束が同じなら、見分けるのはむつかしいだろう。
「あんた、誰?」
 姫君は私を見て、ぽかんと口を開けた。
 私はこれまでの経緯を話した。母親の夕顔が亡くなったと知ると、玉鬘はさすがに涙をこぼした。が、一分半泣くと、パタリと泣き止み、
「それで私はこれからどうしたらいいわけ?」
 と聞いた。
「私と入れ替わって、六条院へ来てください。源氏の君は、細々と気のつく、いい方ですわ。もう少しすれば、お父上の内大臣にあなたを引き取ったと打ち明けるでしょう」
「なんでそんな縁もゆかりもないオジサンの所へ行かなきゃならないのよ」
 玉鬘は不服そうだった。
「これからすぐお父さまの所へ連れていって!」
 時間がかかったが、夕霧も口添えしてくれ、なんとか玉鬘を説得できた。
 夕霧は、手際よく進めていった。主人に口止め料を渡し、筑紫から玉鬘に仕えている使用人たちは、後で右馬の助が連れてくることになった。
 私と玉鬘は牛車に乗り、朝早く六条院にそっと戻った。

 源氏の君や西の対の女房たちから身を隠すため、私は花散里の許で女房として働くことにした。源氏の君は花散里の方にはめったに来ないし、東の対の女房たちは皆おっとりしていて、ちょうどよかった。とはいっても、私も化粧の仕方を変え、髪型を変えたりして、新参の女房に成り済ますべく努力している。
 宇治にいた玉鬘の使用人たちも六条院へ移ってきた。そして、何事もなく数日がすぎたのだが……。


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第4章(4)

「厠とは言わせませんわ」
 私はじたばたしたが、小侍従は上に乗ったまま、着物を脱がそうとする。
 うそ! 私にはそのケはないんだからね!
 起きあがろうとするのだが、重くて動けない。汗と冷や汗が同時に出た。
 玉鬘も見つかっていないのに、今女とばれたら、どうしよう!
 小侍従の手が、私の単にかかった。

 その時だ。
「惟正、惟正はいるか!」
 誰かが、格子戸を荒々しく叩いた。
「夕霧さまが急に倒れられて呼んでおいでだ。すぐに邸に戻れ!」
「はいっ!」
 私は小侍従の下から叫んだ。彼女は露骨にむっとしていたが、のろのろと身を起こした。私は急いで装束を整え、逃げ出した。
 声をかけたのは、右馬の助だった。初瀬から帰ってきたのだ。
 烏帽子は歪み、狩衣の袖も破れた私の格好を見て、彼はにやりとした。
「しどけない姿ですね。お楽しみの最中に失礼いたしました」
 私は怒る気にもなれず、喘ぎながら言った。
「助かったわ、ありがとう」
 内大臣家の外に牛車が待っていたので、後ろから飛び乗ると、目の前に夕霧がいた。
「お姉さま!」
 夕霧はものすごい形相で私を睨みつけた。
「ごめんなさい!」
「宰相の君が知らせてくれなかったら、どうなったと思うんです。本当に女房に言い寄るなんて、全くどうかしてますよ。それもよりによって、小侍従に」
「よりによって、って?」
 私は驚いて聞いた。右馬の助は、黙ってにやにや笑っている。
「有名な女房ですよ。『男漁りの小侍従』ってね。雲居雁には忠実だから使っているようですけど」
「知っていたんなら、教えてくれればいいじゃない」
 私は恨みがましく言った。
「あなたも言い寄る女房が小侍従だとは言いませんでしたよ。大体本当にやるとは思いませんしね!」
 夕霧は一喝した。
「それで姫君は、本物だったのですか」
 と右馬の助が身を乗り出して尋ねた。
「玉鬘じゃなかったわ。右馬の助の方は? 初瀬も駄目だったのね?」
 右馬の助は疲れた様子で頷いた。
「玉鬘の君は、私たちで探します。もうお姉さまは西の対から一歩も出しません。いいですね!」
 夕霧は、私をキッと見据えて言った。 

 翌朝早く、小侍従から手紙が届いた。真っ赤な紙に、香を濃く焚き染めてある。
 あんまりな早帰りじゃないの、もう一度来て、という和歌が書いてあった。
 女だとばれていなかったので、ホッとした。
 返事は、野暮ったい分厚い白い紙に、でかでかと『エロ!』と書いた。何のことやらわからないだろうが。
 それきり、小侍従から手紙は来なかった。


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第4章(3)

 次の日の夜、私は小侍従の局へ忍んで行った。うまい言い訳は結局見つからなかった。私のいない間に源氏の君が来たらうまく誤魔化すようにと、宰相の君だけには内大臣家へ行くことを告げていた。
 月が庭を白く照らし出し、辺りは静かだ。時折、ホトトギスが鳴いているのが聞こえる。
 しかし私の頭の中は、どうやって小侍従を納得させて無事に帰るかということで一杯だった。
 局の格子戸を指で軽く叩くと、小侍従が素早く戸を開けた。
「待ってたわ」
 私はぎょっとした。小侍従は夏物の単袴姿で、上半身が透けて見える。
「こ、今夜は月がきれいだよ。夜通し語ろう」
 声がひっくり返ってしまった。
「月なんかどうでもいいわ。夏の夜は短いのよ」
 小侍従は私に抱きついた。重くて、思わず尻餅をつく。
「か、厠に行きたくなっちゃった」
「もう。あなたったら情緒のない方ね」
 小侍従はぶすっとして言った。
 どっちが、と私は心の中で呟いた。
 私は、近江の君の部屋を探した。そのまま逃げても良かったのだが、念には念を、と思ったからだ。
 忍び足で歩いたが、見咎める者はいなかった。
 近江の君の部屋は、案外すぐわかった。明るい灯が襖障子の間から漏れていた。甲高い声も聞こえる。
 私は障子の透き間から、こっそり覗いた。
 若い女が二人、向かい合って座っていた。装束からすると、背を向けて座っているのが女房のようだ。
「姫、もう寝ましょうよ」
「いーえ、まだよ。いいところなんだから。集中してんだから、声かけないでくれる」
 近江の君らしい女性は熱心に双六盤を見つめたまま、早口で言った。長い髪が顔にかかるのがうっとうしいのか、始終掻きあげている。
「さあ、あんたの番よ」
 いい目が出たのか、姫君は顔を上げてにっこりした。
 姫君は私と似てはいなかった。愛嬌のある顔つきで、柏木に似ていないこともない。私は安心して、近江の君の部屋を後にした。
 出口を探して歩きまわっているうちに、背後に不穏な気配を感じた。
「遅かったですわね。他の女房でも引っ掛けていたの」
「違うんだ。迷ってしまって」
「早く局に戻って」
 小侍従は襟首を掴みそうな勢いだ。私はしぶしぶ局へ戻った。
 妻戸に鍵をかける音がした。
「別に鍵なんかしなくても……」
 私が言った途端、小侍従は私を臥所(ふしど)に押し倒した。
「ちょっと待って!」


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第4章(2)

 翌日、私は内大臣家に足を向けた。もちろん男装して。
 私が呼ぶと、小侍従はすぐに姿を見せた。この暑いのに、脂ぎった彼女の顔を見るのも暑苦しい。
「夕霧さまからのお手紙ですか」
 小侍従は、廊下に座っていた私に、円座(わろうだ)を差し出した。
「いや、今日は私用でね」
 と答えると、小侍従は目を輝かせて寄ってきた。
「新しくこちらに身を寄せられた姫君について聞きたいんだ」
「なんだ、そんなことなの」
 小侍従は立とうとする。
「待ってよ。教えてくれたら、何でもするからさ」
 私は焦って言った。
「何でも?」
 小侍従はくるりと向き直った。
「本当ね?」
「ああ」
 私は頷いた。
「それなら話してあげる。内緒の話なんだから、他の人には黙っていてよ」
 小侍従は声を潜めた。
「……私は会っていないけど、姫君付きに回された朋輩の話では、ものすごく早口のおかしな方らしいわ」
 早口というのは、物語の、近江の君の記述に一致する。ホッとしたものの、「本当に内大臣のお子さまなの?」と聞いてみる。
「目元がそっくりだというから、そうなんでしょう」
「姫君は、近江の君とおっしゃるそうだけど」
「よく知っているわね。惟正さん、近江の君に興味があるの?」
「い、いや」
「教えてあげたんだから、約束は守ってね」
 小侍従は流し目を使って言った。
「いいよ、何がほしいんだい。扇とか、着物とか?」
 私は気軽に聞いた。これくらいは必要経費で落ちるだろう。
「物じゃありませんわ。明日の晩、付き合って下さればいいんです」
「付き合うって、あの……」
 私は絶句した。その時、他の女房が小侍従を呼ぶ声が聞こえた。
「亥の刻頃、来てね。私の局の鍵は開けておくから」
 小侍従は耳元で囁くと、するりと御簾の中へ入ってしまった。
 どうしよう。仮病を使ったって、すぐにばれるだろうし、急の物忌みとか……。
 私は呆然とした。

 

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第4章(1)

 夏になったというのに、雨の日が続いていた。右馬の助は別の仕事で、出張がちだったので、近頃玉鬘探しも滞っている。先週は夕霧と、玉鬘探しに出かけたが、収穫は何もなかった。
 雨では染色もできないし、とりあえず勉強も一通り終わって、『ゆとり教育』になったせいもあり、私は退屈していた。
 几帳に、この間自分で染めた着物が掛かっている。黄蘗(きはだ)で染めたレモンイエローの布を、花散里が
(うちき)仕立ててくれた。染色は、同じように慎重に作業したつもりでも、同じ色は二度と出ない。だからこそ思い通りの色が出ると、飛びあがるほど嬉しい。
 黄蘗に落ち着いた色の刈安の衣を上に襲ねて、グラデーションにして着ても面白いかも。それとも梔子色のほうが合うかしら。花散里は今度、くくり染めを教えてくれると約束してくれたから、早く晴れないかな。
 蔀を少し上げて、空を見たが、灰色の雲は重く垂れ込めている。雨は当分止みそうもない。
 諦めて、今日届いた柏木の文を開いた。文面に押しつけがましさがなく、好感が持てる。メールマガジンではないけど、私の楽しみの一つになっていた。
「柏木からの文でしょう? 彼はお姉さまに大変な執心ですよ。昨日も宮中で会ったんですが、しつこくって参りました」
 夕霧が御簾の陰からひょっこり現れて、無邪気に笑った。
「今日はどうしたの」
 柄にもなく照れてしまい、つっけんどんな声になった。
「耳寄りな情報が入りまして」
 夕霧は座りなおし、真面目な表情になった。
「内大臣家に娘が一人引き取られたそうです。母親は亡くなっているのですが、身分が低かったらしく、姫君も教養がないとの噂ですが」
「もっと詳しいこと、わからないの? 例えば顔かたちなんか。本物なら、たぶん私に似ていると思うの」
「そこまでは……。今、右馬の助が初瀬を調べ直しています。明後日の夜遅く帰りますから、内大臣家の方はそれからにしましょう。あまり私が、新しく来た姫君のことを聞くと、雲居雁に邪推されそうだ」
 夕霧は照れもせずに、さらりと言ってのけた。
「内大臣家の女房とは面識があるから、私だけでもなんとかなるかもしれないわ」
 私は惟正として、都のあちこちの女房たちと親しくなっていた。
「姫君をちょっと覗くなんてこと、できないかしら」
「姫君のお部屋は奥にあるでしょう。どうやってそこまで行くんですか」
 夕霧は呆れた顔をしたが、興味も持ったようだ。
「うーん、姫君付きの女房に言い寄るとか」
「バカな! 何考えているんですか、あなたは!」
「怒鳴らないでよ、冗談だったら。他にいい方法あったら、教えてよ」
 夕霧はぐっと詰まった。
「それより」
 と私はにやりとした。
「夕霧が姫君に言い寄る方が早いんだけどね」
 夕霧は真っ赤になると、部屋から出て行ってしまった。足を踏み鳴らして東の対に帰っていく夕霧を、宰相の君は気の毒そうに見て言った。
「ちょっとやりすぎですよ」
「すぐ本気にして、からかいがいがあるんだもの」
 私が笑うと、宰相の君は「まあ」と言って、顔をしかめた。
 源氏物語には、玉鬘と比較するように『近江の君(おうみのきみ)』という下品な姫君が出てくる。父は内大臣だが、母は卑しい身分の女という設定だ。しかし今度引き取られたのが、その近江の君だと断定は出来ない。本物が近江の君として引き取られていたら、大変だ。それをどう確かめたらいいだろう。
 小侍従の顔が、ふと浮かんだ。


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第3章(5)

「風邪を引いんだって? あんまり私に冷たくするからだよ」
 源氏の君は、翌朝、西の対に渡ってきた。
「ご心配をお掛けしましたが、大丈夫です」
 源氏の君は、私の額に手を当てた。
「お熱はないけど、まだ風邪声だね、気をつけなくては。それはそうと、しばしば夕霧がこちらへ訪ねてくるようだが……」
「実の姉だと思っていて下さるので、不自由がないかと、訪ねて下さっているだけです」
 源氏の君は、疑い深そうな顔をした。
「あまり親しくなるのも考えものだ。間違いがあっても困るから」
 自分のことは完全に棚に上げているので、私は呆れた。
「それより兵部卿の宮からのお手紙は読みましたか」
 源氏の君は螺鈿の細工が施された文箱を私の方へ押しやった。
「是非一度会いたいと書いてあるよ」
「後でお返事はしておきます」
 私は丁寧に、でもきっぱりと言った。
 源氏の君は触るとまた抓られると思ったのか、離れて座っている。
「面白い絵物語を手に入れたのだけど……」
 源氏の君は少しずつ寄ってきて、巻物を広げた。
「これは有名な絵師に書かせたものなんですよ」
 鮮やかな彩色がされた、絵物語だ。私は勉強ばかりしていたので、娯楽に飢えていた。
 源氏の君そっちのけで読んでいると、
「君のように冷たい姫君は、どんな物語を探してもいないけどね」
 と源氏の君は、恨みがましげに言う。
「源氏の君のように、色めかしい親も登場しませんけど……」
 私があっさりと言うと、源氏の君はばつが悪そうな笑みを浮かべた。
 今のところ、源氏の君は権力を振りかざして、性的関係を迫るということはしない。
 派遣社員だと簡単に辞めさせられるので、卑猥なことを言われたり、迫られたり、触ったりされる被害が後をたたない。社内にセクハラ対策の委員会ができたので相談したら、被害を受けた派遣社員が辞めさせられたというケースを、テレビで見た。
 そう考えると、こっちの顔色を窺いながら、口説いている源氏の君はまだまだ可愛げがあるのだ。
 物語がクライマックスにさしかかった所で、源氏の君はさっと巻物を仕舞った。
「続きはまた明日。じゃ~ね」
 源氏の君は悪戯っぽく笑って、手を振って帰っていった。


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第3章(4)

 たくさんの人が、白衣の人の前で並んでいる。健康診断の順番を待っているのだ。
「あなたは、次はレントゲンで終わりよ」
 血液検査の隣のスペースの眼底検査に並ぼうとすると、検査技師の女性が言った。
 周りの正社員が、憐れみの目を向けた気がした。顔が強張って、小走りでレントゲン車へ移動した。
 派遣社員は、正社員と比べて診断項目が三分の二しかない。人間ドックは四十歳未満なら実費で受けなくてはならない。目に見える形の差別は、自分が派遣社員であると嫌でも思い知らされる。

「お姉さま、大丈夫?」
 ハッと目が覚めた。心配そうな顔で夕霧が覗き込んでいる。
 私はびっしょりと汗をかいていた。
「気がついた?」
 花散里が言った。額に冷たい布の感触。頭が重く、ぼうっとしていた。
「……大丈夫よ」
 声を出したが、自分の声とも思えないほど掠れていた。
「疲れが出たのかな。ちゃんと本物は探しているから、ゆっくり休んでください」
 夕霧の言葉に私は頷いた。それから眠ったようだ。
 次に起きた時には、熱は下がっていた。

 翌日の夕方、また夕霧はやってきた。私の顔を見て、大分よくなったみたいですね、と微笑んだ。
「はい、お土産」
 夕霧は、小さな紙袋を差し出した。中を見ると、私の好きな唐菓子だった。
「ありがとう。今、仕事から帰ってきたの?」
 私はお茶を入れながら聞いた。夕霧は頷いた。
「仕事はどう?」
「忙しいですよ。そこそこ、やりがいはあるかな」
 夕霧は真面目に言った。
「そう……」
「ところで、ハケンって何ですか」
 夕霧の質問に、私は驚いた。
「昨日、随分うなされていて、ハケンは嫌だ、って何度も言っていたから。悩みでもあるのですか」
 夕霧は優しい顔で尋ねた。
 私は自分の現状と悩みを話し出した。ふと気がつくと、かなり長い時間、現代について詳しく話してしまっていた。
「派遣社員を軽んじているくせに、仕事では正社員がすごく頼ってくる。そこがとてもおかしいと思うの」
「今の時代だってあまりいいとは思えないけど、お姉さまの時代はギスギスしていますね」
 夕霧は顔をしかめていた。
「やりがいがある仕事はほんの少しで、あとは雑用。毎日、判を押すのと同じ。派遣先を変わったところで、判の色や種類が少し変わるのと同じような気がするわ」
「お姉さまは、仕事に理想を求め過ぎではないですか。最初は私も位が低くて、さんざん馬鹿にされた時期もありました。今はまあまあだけど、やっぱり私だって毎日判を押す感覚っていうのはあるし」
 確かにそうかもしれない。
「私たちの時代は、生まれで全て決まってしまいます。でも、お姉さまの時代は違うのでしょう? 諦めずに探してみたらどうですか。自分に向く仕事がどれなのか」
 夕霧はとつとつと話した。
「でも年齢である程度、決まってしまうもの」
「じゃあ、諦めて派遣社員を続けるしかないじゃないですか」
 夕霧は強い目で私を見た。
「結局何かを手に入れるには、何かを失わなきゃならない。それはどこの世界だって同じでしょう。正社員になるために努力したって、ぼーっとして適当に仕事をしている人もいるけど、終電で帰る人だっているんでしょう? それで体を壊す人だっている。派遣社員で、定時に帰って、自分の時間を楽しんで、ただし給料は安いとか、軽んじられるとか、そういうのを気にしないで仕事をしていくか、それか自分で起業するか、それくらいしかないでしょう。きちんと考えてどれかを選んだら、迷わないことです」
 私はハッとした。一回りも年下の夕霧に諭されるとは思わなかった。私はやはり甘いのだろう。
「落ち込まないで下さいよ」夕霧は慌てて言った。「お姉様だってまだまだ若いんだし、今から考えればいいじゃないですか」
 鼻の奥がツンとした。それを誤魔化すために、唐菓子を口に入れた。
 夕霧も、お茶を飲みながらお菓子を一かけらつまんだ。
「いつか打ち込める仕事がきっと見つかりますよ。それまでの辛抱です」


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第3章(3)

「どうかしたのですか」
 声をかけると、花散里はやっと顔を上げた。表情もいつもとは違い、疲れた感じだ。
「あなたを見ていると、毎日が新鮮そうで、羨ましい」
 花散里は深い溜め息をついた。
「もし生まれ変わるとしたら、あなたの時代に行ってみたいわ。今の私は殿に面倒をみてもらっているだけ。貴族の女なら当たり前だし、恵まれた生活をしているとは思うけど、疑問を感じることがあるのよ。殿が嫌いではないのよ。でも私には他にもっとできることがあるんじゃないか、って考えてしまうの。外の世界で働いてみたいわ。意見も一杯言って、やりたいことをしてみたい。いろんな仕事を経験できるなんて素敵なことだわ」
 確かに花散里なら有能な働き手になるだろう。この時代のスキルも高いが、人の育て方もうまいのは、夕霧を見ていてもわかる。現代でもすんなりと馴染みそうだ。
 現代について喋ってはいけないという安藤さんの注意は覚えていたが、私は平成の時代について話した。
「私の時代でも、女性の社会進出は他の国に比べたら、随分遅れているんです。賃金格差だけでなく、男女差別は多いし、妊娠したら正社員でも辞めさせられるケースも多いんですから。私の知り合いに、出産して職場復帰したら、嫌がらせで遅いシフトの仕事に回されて、辞めなければならなくなった人が実際にいましたから」
「千年後でもそんなに変わっていないの?」
 花散里は肩を落して、東の対へ帰っていった。

 私自身も残りの宿題を片づける気分ではなかった。平成の私の現実を、久しぶりに思い出して考え込んでしまった。
 私はここで、いくら琴がうまくなろうが、読み書きができようが、現代に帰れば何の役にも立たない。本物が見つかれば用なしだ。平成と平安時代とでは全く違うタイプの格差社会だから、一概には比較できない。でも源氏の君が、勝ち組であることは間違いない。それに引き換え、私はここでも派遣の身。源氏の君の気が変わって、途中で私がお払い箱になる可能性だってないとは言えない。
 派遣社員は、デパートの受付嬢、テレビ局のAD、工場での製造作業者など、あらゆる職種にわたっている。
 だが三年以上同じ職場にいても、給料は上がらないし、交通費は原則支給されず、ボーナスはもちろんなし。正社員と全く同じ仕事を任されて、立派にやっていたところで、正社員に登用されることもほとんどないから、モチベーションは下がる一方だ。派遣社員から正社員になったら、ボーナスが出るかわりに時給を下げられ、却って一ヵ月の給与が下がってしまい、生活に困り、辞めざるをえなくなったという話も聞く。
 いろんな職場で働いていると、様々な人を見る。企業の新しい部門の立ち上げに派遣社員が採用され、社員を指導した人。たくさんの資格を持った派遣社員。正社員で尊敬できる人もたまにはいるが、驚くほど仕事が出来ない人もいる。
 ほとんどの場合、正社員は不正や大きなミスをしたって、何ヵ月かの減給か、訓告で終わる。実際に正社員と派遣社員が全く同じミスをした場合、正社員はお咎めがないのに、派遣社員は延々と説教される。
 現在は、非正社員が働く人の三人に一人という割合だ。それなのに、厳然と派遣社員は区別されている。
 派遣社員を使っていながら、派遣先責任者である上司が労働者派遣法の中身を知らない。企業側がコストを問題にするのなら、正社員は無しにして、全員派遣社員にしたらどうなのだろう。結婚しない男女が増えているのも、非正社員が増えていることも一因だろう。目的があって自分で選択しているなら、それは問題ない。でも私が派遣先会社で出会った友達のほとんどは、正社員を望みながら採用してもらえない人達だった。
 こっちの世界に来て、半年になる。派遣社員への風当たりはもっと厳しくなっているだろうか。現代はどうなっているのだろう、と焦りを感じる。
 でも戻っても、今までみたいに流されて生きていたら、ここでの暮らしと一緒ではないか。現代に帰って、私は何をしたい?
 大事なのは今後の自分だ。本当にやりたいこと、って今まで自分にはあっただろうか……。


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第3章(2)

 ある日の夜遅く、花散里からの宿題の和歌の暗記をしている時だった。
 どこからか艶かしい香りがすると思ったら、源氏の君が突然現れた。
「じゃーん! 今日は先触れしなかったら、いきなりで驚いた? それより、美しい月夜ですよ。本なんて置いて、外を見て御覧なさい」
 私はしぶしぶ本を置いた。この仕事は業務時間がないので、「時間外ですので」と断れないのが辛いところだ。
 源氏の君は燭台の明かりを小さくし、蔀(しとみ)を上げた。
 月の光が冴え冴えとさし込んでくる。私も少し端に座り、月を眺めた。十三夜くらいだろうか。薄雲もかかっていない、美しい月だった。
「君の母上の夕顔とも、こんな風に月を見たことがあった……。初めて君に会った時は、あまり似ているとは思わなかったけど、近頃は夕顔そのままに思えてきて……」
 源氏の君はにじり寄ってきて、真顔で私の手を握った。
「私は母ではありませんから、困ります」
 私は玉鬘らしく、怯えているように振舞った。
「冷たいなー。どうしてそんなに嫌がるんですか。親としての愛情にもう一つの愛情が加わるだけなのに」
 源氏の君はくにゃっとしなだれかかってきた。
 女房たちは寝てしまっているのか、気配もしない。
 源氏の君は、私の髪を優しく撫でたが、かもじだとばれたら困る。私は身を硬くした。
「その着物、私が贈ったものだね、よく似合うよ」
 素早く肩を抱かれて、囁かれた。私はその時たまたま、贈られた山吹襲の着物を着ていた。

 ①あくまで玉鬘らしく、抵抗しない
 ②悲鳴を上げて逃げる
 ③張り倒す

 ①から③のうち、どう対処するか迷っていると、お尻がぞわっとした。何枚も衣を重ねている上からだったが、源氏の君が私のお尻を触ったのだ。私はびっくりした。ブッシュ大統領に肩をもまれて、椅子から飛びあがったメルケル首相くらい驚いた。
「痛いっ!」
 源氏の君は、悲鳴を上げて手を引いた。弾みで私は突き放されて、どたっと転んだ。
「何で抓るんですか! 痕が残ったらどうするんです」
 源氏の君は涙目になって、手の甲をさすっている。
「仲良くしていたのに、これぐらいのことをなぜ嫌がるの。これ以上のことはしないから」
 当たり前だ。派遣元の平安堂が責任を取ってくれるとは思えない。派遣会社なんて、派遣先の会社の顔色ばかり窺って、派遣社員のことなんか何にも考えていないんだから。
 物語の中では、結局源氏の君は玉鬘にこれ以上のことはしないが、本当に思いとどまるかどうか……。セクハラ講習でもやってやりたい。
 睨みつけていると、源氏の君は「ああ、痛い」と呟きながら、そそくさと部屋を出て行った。
 私は緊張の糸が切れて、どっと疲れた。

 次の日は、和琴の練習の日だった。暗記の宿題は、源氏の君のせいでできなかったので、また花散里に怒られるかと、びくびくしていた。
 和琴は滑らかには弾けないが、変な音をたてることもなくなった。
 いつもならすぐに稽古を始める花散里だが、宿題の件にも触れず、黙り込んでいる。


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第3章(1)

 年が改まったが、依然として玉鬘の消息は不明だった。私の、姫君の教養マスター率は、約八割といったところだ。
 そして、偽玉鬘の私の許へ、懸想文、つまりラブレターが次々と届くようになった。源氏の君に引き取られたので、娘だと勘違いされているのだ。
 ラブレターは、兵部卿の宮(ひょうぶきょうのみや・源氏の君の異母弟)、右大将、柏木などからだ。身分の低い男からの手紙は右近がチェックして捨てている、と宰相の君が言っていた。
 宰相の君は、私付きの若い女房だ。手跡も美しいので、よく代筆してもらっている。なかなかの美人だ。もう一人くらい私の事情を知っている人がいた方が、ハプニングが起こった時のフォローをしてくれるだろうと考えて、花散里が私に付けた。
 自慢ではないが、ラブレターなんてもらったことがない。書いたこともないけど。
 見たこともない女に、ラブレターなんかよく書けるものだな、と思いながら読むが、この時代の貴族はみんなそうなのだ。噂で「あそこの家の娘は美人らしい」と聞けば、手紙を送ってみて、筆跡がきれいだとか、和歌が上手かったりすると、勝手に想像を膨らませて夢中になり、通って結婚したり、恋人になったりする。もちろん家柄がよく、財力がある女に越したことはない。噂だけが頼りなので、失敗もある。女のほうも一夜限りで男が来なくなったり、意に添わない男と結婚させられることも多い。
 貴公子との出会いもあります、なんて平安堂の安藤さんは言ったけど、こっちの世界も甘くない。
 兵部卿の宮は浮気で名高いし、右大将は髭黒というあだ名の通り、顎鬚と口髭がトレードマークのごつい男で、正妻もいるし子連れ。柏木は可愛いけど、まだ十九だ。
 手紙を読んでいると、源氏の君の声が聞こえた。
「あの娘、誰? かわいいね」
 几帳の透き間から覗くと、源氏の君は、右近に新参の女房の名前を尋ねていた。
 源氏の君が手を振ると、まだ十五、六歳のその女房は真っ赤になって隠れてしまった。
 またいつもの病気だよ、と私は苦笑した。最初は、重々しい位に就いているいい年の男が何をやっているのだと驚いたが、源氏の君は器量のいい女の子を絶対に見逃さないのだ。
 そういえば似たような上司がいたな、と思い出した。若い女の子限定で肩を触ったりするオジサンとか。
 源氏の君は鼻の下を伸ばした表情のまま、私の部屋へ向かってきた。
 私は文を畳み直して、そ知らぬ顔をしていた。
 源氏の君は邸にしょっちゅういるから、太政大臣というのは仕事はあまりないみたいだ。ちなみに、律令制度では最高の位だ。天皇の師となり、一国の模範となる有徳者じゃなければ就けない位らしい。
 源氏の君は座るなり、文を手にとり、じっくりと見比べている。
「相変わらず兵部卿の宮は熱心に文をよこしているな。我が弟なのに顔はそれほどでもないけど、人柄はまあまあだし、お返事を書きなさい。堅物の右大将まで、こんな甘ったるい文を寄越すとはね。おや、手紙に蟻が寄ってきた」
 源氏の君は菓子を食べながら、にやにやした。
「これは……」
 水色の薄様(うすよう)の手紙を、源氏の君は手に取った。
「なかなかうまい手跡だ。誰から?」
「柏木さまからです。ご姉弟とご存じないので……」
 と右近が困ったように言うと、
「まあ、本当のことはいずれわかるから」
 と源氏の君は簡単に言う。
「内大臣にもそのうちきちんとお話しようと考えているけど、長い年月離れていた一族の中に急に入っていくのは、気苦労があると思うんだよ。世間並みの女のように、まず結婚しちゃってから、親子の名乗りをする方が何かとうまくいくものだよ。かといって相手があることだから。兵部卿の宮は恋人が多くて、よくない噂もある人だから、大目に見てあげないと……。右大将は年上の妻との間が冷え切っていて、君に恋をしてしまったらしいけど、右大将の北の方は、私の妻の紫の上と縁続きだから恨まれてもねえ……」
 源氏の君は悩んでいるが、私に言われても困る。だったら引き取らなきゃいいのに。


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第2章(5)

 内大臣家へ着くと、私は雲居雁付きの女房に手紙を渡した。
「お返事をすぐにいただくように言われておりますので」
 と右馬の助が伝えると、私たちは部屋で待たされた。
 ほどなく返事を手にして現れたのは、手紙を渡した女房ではなく、小侍従だった。小侍従は目がぎょろりとしていて、色が真っ黒で、髪は茶色くてぼさぼさだ。おまけに脂性で、顔がてかてかしている。
 この時代、美男美女は色白で目が細いと決まっているし、女性は髪の美しさも必須条件だ。私も苦手な女だが、右馬の助は顔が変形しそうなほど顔をしかめていた。
 小侍従は「お返事でーす」と甘えた声で、私の手を握るように手紙を渡す。全くキャラに合っていない甘い香を過剰に焚き染めているので、咳が出そうだ。手紙を受け取ってすぐに手を引っ込めると、「お手紙が破れそうだわ、乱暴ね」とねっとりと笑う。うう、気色悪い。
「また、異母妹(いもうと)への文使いか。夕霧も諦めの悪い……」
 笑みを含んだ声が聞こえて、廊下から部屋へと入ってきたのは、若い男だった。優しそうな顔をした、すらりとした青年だ。
 小侍従が「これは、柏木さま」と慌てて座を作る。
 確か柏木は、二十歳前のはずだ。貴公子らしい優雅さと落ち着きが漂っている。香は、丁子と白檀、沈香などを調合したもののようで、清らかで爽やかな香りだった。
 ……若いなぁ。私にもこんな時があったのに、何していたんだろう。十数社も面接を受けて、やっと小さな会社に正社員として内定して……。でもその会社もやりがいがなくて二年で辞めちゃったんだ。そこで我慢していれば、今頃派遣で苦労してなくてもよかったんだよね……。
「見かけない顔だが……」
 柏木は私を見て言った。またまじまじと見てしまったらしい。私は目を伏せ、頭を下げた。
「私のいとこで惟正と申すものです。田舎にひっこんでいたのですが、このたび夕霧さまにお仕えすることになりまして」
 右馬の助はすらすらと答えた。前から夕霧と決めておいたのだ。
「そういえば、太政大臣(源氏の君)は娘を引き取られたそうだね。夕霧も遠く御簾越しにお会いしただけで、お声も聞いてないとか。余程奥ゆかしい人柄の姫君なのだろう」
 柏木は興味ありげに言った。
 右馬の助は笑いを堪えているのか、頭を下げたまま、肩が小刻みに震えている。
 どーせ、私は奥ゆかしい姫君じゃないわよ。
 私は右馬の助を横目で睨んだ。


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第2章(4)

「あの……、未来から来ているのなら、あなたは今後私たちがどうなるか、知っているんですよね」
「詳しくは知らないわ。大体なら……」
 私は用心深く答えた。
「私の供になる条件に、一つだけ教えて下さい。雲居雁(くもいのかり)とのことなんですが、僕は彼女と結婚できるのでしょうか」
 『雲居雁』は、夕霧のいとこで、幼馴染の恋人だ。でも今は、彼女の父親の内大臣に仲を裂かれている。近頃源氏の君と内大臣の仲が悪いのは、政治的なライバルという他に、このことも原因だ。
 私はちょっと考えた。物語の進行には、特に妨げにならないだろう。
「できるわよ」
 私が答えると、夕霧はパッと顔を輝かせた。
「本当ですか」
「本当よ。ただし時間はかかるわよ。内大臣は頑固だから、気長に待つことね」
「ありがとう」
 夕霧はさっきまでの不機嫌はどこへやら、嬉しそうに笑った。

 それから一ヵ月後。
 私は、夕霧の腹心の部下の右馬の助と共に、内大臣家へ向かっていた。表向きは、夕霧の恋文を雲居雁に渡すためだが、本当の目的は玉鬘を探すことにある。
 私は一週間に一回、右馬の助か夕霧と共に、都を歩き回っている。毎日は夕霧に許されなかった。この時代は警察があまり整備されていないので、行方不明者の情報は市に出入りする商人の方が詳しい。外出する時は必ず市に寄り、目新しい情報がないか聞いてまわった。
 私は、源氏物語で、玉鬘の一行が京の岩清水八幡宮に立ち寄ったことを覚えていた。それは確認できたのだが、それから先の足取りが全くわからない。大和の初瀬寺を調べている家人からも連絡はない。おおっぴらに探せないので、それほど人数を割けないのだ。だが近くまで来ていることは確かなようだ。
 でも私は、玉鬘探しを結構楽しんでいた。あちこちの邸に出入りしたり、夕霧の方違え(かたたがえ・出かける方角がよくない場合、前夜に別の方角へ行って泊まり、方角を変えてから出発すること)について行ったりできるからだ。女房たちは他家の噂に恐ろしく詳しかったが、玉鬘にまつわる情報はなかった。
 夕霧は心配していたが、誰も私が女だと感付いていない。髪は少し長くなったものの、髻も簡単に結えたし、自分で言うのもなんだが、男の装束がばっちり似合っている。
 市に入ると、顔見知りになった商人が黙って首を横に振った。情報はない、ということだ。他も当たってみたが、また無駄足だった。
 市場は今日も賑やかで、大勢の人が買い物をしている。錦など贅沢なものを買い求める貴族達がいるかと思うと、ぼろを着た物乞いがいる。格差社会だなと思うのはこんな時だ。この間も、私たちが通りを歩いている時、美しい檳榔毛車(びろうげのくるま)が追い越していったと思ったら、すごいスピードで引き返してきた。行く先に行き倒れの死体があったのだ。

 今日はそういう出来事もなく、うららかな日だった。歩いていると、やたらと欠伸が出てしまう。
「相当しごかれているみたいですね、花散里さまに」
 右馬の助はにやにやして言った。
「毎日睡眠時間三、四時間だもの」
 どこが、セレブなスローライフだ、とまたしても、平安堂の安藤さんを罵倒したくなるような日常だった。姫君なんて、のんびり絵巻物を見たり、貝合わせをしたりしていればいいと思っていたのだが、私を待ちうけていたのは、和歌の暗記だ。
「花散れる水のまにまにとめくれば。はい、下の句!」
「山には……、えーっと」
「だめじゃないの、これくらい暗記しなきゃ!」
 花散里は、扇でピシリと私の手の甲を打つ。体罰反対! 毎日がテスト前みたいだ。
 古今集は全二十巻、千百十一首もあるのだ。すぐ覚えろと言われても、普通の貴族の姫君でも何年もかかる。しかし、花散里のスパルタ教育のおかげで、少しずつ古今集も暗記しつつあるし、美しい手跡とはいかなくても、なんとか仮名文字が書けるようになった。和琴も教えてもらっている。源氏物語では、内大臣は和琴の名手という設定なので、娘の玉鬘もそこそこ弾けなければ格好がつかないのだ。他にも、貴族の姫君としての心得、作法、立ち居振舞いなども習っている。
 裁縫はやはり全くだめで、花散里もあきれていた。中学生の時家庭科で居残りをさせられた苦い思い出がよみがえってしまう。
 染色は気に入った。手順は面倒だけれど、布が染め上がるまで、どんな風に仕上がるだろう、とわくわくする。
 染料は、自然の草花や木の皮、実から取る。紫は、紫草の根から取る。紅花からは紅。緑色を作るには、藍と梔子(くちなし)や刈安などの黄色を染め重ねればいい、と花散里から教わった。
 材料を細かく切り、水の中でぐつぐつと煮て、吹き零れないように火加減を見ながら、杓子で掻き回す。もっとも花散里は指示するだけだが、材料の量やタイミングは彼女の頭の中に全部入っているようだ。面白そうなので、私は少しだけ手伝わせてもらったが、色を煮出すのは熱いし、水は重いし、着物で作業するのは大変だったが、染色への興味はますます湧いた。
 でも身に着けても、この時代のスキルは、他で通用しないからな~。また平安堂から派遣に出るならともかく……。


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第2章(2)

 そして十月吉日。いよいよ今日、私は六条院に乗り込むのだ!
 六条院は、四季の御殿に分かれている。春の御殿には、源氏の君と妻の『紫の上』、『明石の姫君』(源氏の君と恋人『明石の御方』の間に生まれた)が住んでいる。夏の御殿には、『花散里』と、源氏と亡くなった正妻の間に生まれた息子『夕霧』。秋の御殿には、養女の『秋好(あきこのむ)中宮』。そして冬の御殿には『明石の御方』が暮らしている。
 私が住むのは、夏の御殿の西の対である。
 西の対に足を踏み入れた。調度品のことはよくわからないが、どれも真新しく、高そうだ。
 私は御簾ごしに庭を眺めた。りんどうや菊が盛りだ。さやさやと葉が擦れ合う音が聞こえる。
 静かだ。平日の昼間だというのに、音はほとんどしない。たまに女童の立てる足音や女房の衣擦れの音が聞こえるくらいだ。
 こんなにゆったりした時をすごすのは久しぶり。
 今頃会社なら、時間に追われて、電話を取ったりパソコンに入力したり、書類をチェックしたりしているところだ。昼休みも、後輩の女の子の騒がしさにげんなりしていた。
 私は、りんどう襲ねの衣に包まれて、おもむろに扇を開き、その陰でちょっと笑った。

 夜、源氏の君が、西の対に渡ってきた。私は短い髪を隠すため、かもじをつけていた。かもじとはエクステンションのことだ。人毛だから気持ちが悪いのだが、見た目は自然で、着物にさらりと掛かっている様は、我ながら姫君っぽかった。
 源氏の君が来ると言う先触れの声が聞こえ、華やかで艶かしい香りが漂って来た。几帳の透き間から覗くと、着物だけがちらりと見えた。薄い藍色の直衣(のうし・上着)に、濃紫の紋の浮き出た指貫(さしぬき・袴の一種)。
 源氏の君は、几帳を押しのけた。
 これこそ、王朝ロマンの世界だわ!
 私のドキドキは最高潮だった。
 源氏の君は美しい男だった。肌は白く滑らかで、整った目鼻立ち。確か玉鬘の巻だと、三十五歳のはずだが、若く見える。
 源氏の君は、苦笑いした。
「君は、母上と違って物怖じしない人だね」
 平安の姫君になったのを忘れて、私は穴の開くほど、源氏の君の顔を見ていた。
「すみません」
 私は慌てて俯いた。
「それより、君が無事でよかった」
 源氏の君は扇を広げて、顔にかざして涙をぬぐった。仕草がなよなよとして女っぽい。
「これからは私が親代わりだから、安心してください」
 源氏の君は言いながら、馴れ馴れしくすぐ傍まで寄ってきた。
「いい香りだね。荷葉とも違うし……」
 私は、いまだにハンドバッグに入れてあったお気に入りの香水を使っていた。
「ニナ……」
 ニナ・リッチのレベル・ドゥ・リッチ2です、と言いかけた。
「にな?」
 源氏の君は、怪訝そうに聞き返す。
「い、いえ、私が育った田舎には、ニナという霊木があるのです。その実から取った香ですの」
「へえ、珍しい。そのうち、秘伝の調合法を伺いたいね」
 源氏の君の言葉に、血の気が引いた。
「唐菓子でございます。お召し上がり下さい」
 右近の言葉に、源氏の君がさっと振り返った。お皿には珍しいお菓子が盛られていた。ねじった形のものやゴマがついたものなど、いろいろ種類がある。
「君も食べたら?」
 源氏の君はすでにリスみたいに頬張っていた。つまんでみると、味はドーナツに似ていておいしかった。
 源氏の君はせっせと口に詰め込んでいる。その嬉しそうな顔といったら、子供みたいだ。相当の甘党みたい。
 源氏の君は全部食べてしまうと、右近に色々と用事を言いつけてから、「まだ疲れているみたいだから、もう帰るよ」と言った。
「じゃ~ね」と源氏の君は笑顔で、私に手を振った。
 ……じゃ~ね、って。


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第2章(1)

 次の日、源氏の君から私の許へ手紙が届いた。
 手紙を読むというのも久しぶりだ。上質な地の厚い紙がきれいに折り畳まれている。芳しい香りがした。紙にお香を焚きしめてあるのだろう。みやびだわね~、とうっとりしたのも束の間、手紙を開いてみて、私は呆然とした。
 ゼミで勉強した仮名文字に似てはいるが、……読めない! 仮名や漢字を取り混ぜて、たらたらと続けて書いてある上に、達筆なのか、一文字もまともに読めない。
 これは、『う』かな。次の文字は、えーっと『は』、いや『に』だっけ?
 私は脇息に寄りかかって、頭が痛む振りをした。
「気分がすぐれないの。右近、代わりに読み上げてちょうだい」
 内容は、養女として大切に育てるので、六条院に身を寄せるように、というものだった。手紙と一緒に、たくさんの着物も届けられていた。朱色、桜色、黄色、萌黄、藍色……。模様がくっきりと織り出されたものもあり、私は再びうっとりとした。
「姫さま、源氏の大臣にすぐにお返事を」
 右近の声が、私を現実に引き戻した。
「源氏の君に引き取られれば、自然にお父上の内大臣のお耳にも入るはず」
 右近はしたり顔で、自分の言葉に頷いている。
 返事を書きたいのは山々だが、私にはとてもあんな文字は書けない。
「頭がガンガンする。代筆しておいて」
 私は脇息につっぷした。
「そんな、姫さまがお書きにならなければ意味がありませんわ」
 右近はぐずぐず言っていたが、私が無視していると、溜め息をついて、文机に向かった。


 九月も末になり、私が六条院に移る日が近づいてきた。わくわくする反面、不安だった。平安の姫君に転職するのは、当たり前だが初めてなのだ。貴族の姫君にはいろいろと教養が必要だ。
 まず和歌が読めること、仮名文字が書けること(この時代、漢字は男のものなので、女は書けなくても構わない)、琴(きん)、筝(そう)、和琴(わごん)のうち最低一つが弾けること。それと染色の技術やお香の調合方法も出来た方がいい。威張るわけではないが、私は全部できない。
 この時代の常識すら覚えたばかりだ。
 着物の襲ね色目(かさねいろめ)が、季節ごとに決まっている。今の時期だと、りんどう(表が蘇芳・裏が青)や紅葉(表が赤・裏が濃赤)などだ。
 髪を洗ってはいけない月や爪を切ってはいけない日があるのも、驚いた。
 右近は私が毎日髪を洗うのを見て、「九月は洗髪には忌むべき月と申しますのに」と顔をしかめたが、ちょっとうらやましそうだ。
「一ヵ月も髪を洗わないなんて、考えられないわ」
と反論すると、右近は、「一体乳母はどうして姫さまを田舎びた方にお育てしたのでしょう」と嘆くのだった。


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第1章(3)

 
 最初に目に映ったのは、四十過ぎくらいの面長な女性だった。心配そうな顔で私の顔を覗き込んでいる。
「姫、姫さま、お気づきになられましたか。私がわかりますか? 夕顔さまにお仕えしていた右近です」
 私はガバッと起きあがり、辺りを見まわした。そこは、さっきまでいたかび臭い事務所ではなく、畳敷きの広い部屋だった。寝台の四方には帳があり、外には屏風が立ててある。他の調度品も現代とは全然違う。右近と名乗る女性は、渋い色合いの着物を何枚も重ねている。
 本当に、採用されちゃったんだ。
 平安堂より参りました、小早川ハナコです! よろしくお願いします、って名乗る訳にもいかないんだよね。
 私は、自分に着せ掛けられていた、薄紫色の着物を見ながら思った。
 しかし、次の瞬間、ギョッとした。着物の下が、洋服だったのだ。会社帰りに着ていた紺のスーツ。
「……お脱がせしようと思ったのですが、どうやっったらいいのかわからなくて……」
 右近は眉をひそめていた。
「これは、えーっと、田舎で流行っているのよ」
 苦し過ぎる言い訳をしつつ、心の中で平安堂の安藤さんを罵倒した。
 物語の通りに行動しろって言ったくせに、怪しまれちゃうじゃないの。制服くらい支給しなさいよね!!! 全く派遣会社の営業って、どこも全然頼りにならない!
「でも本当に驚きましたわ。初瀬参りの帰りに泊まった宿の前に姫さまが倒れていらっしゃったのですもの。夕顔さまに似ていらしたし、昔の面影もありましたから、もしやと思いましたが……。これも仏様のお導きかと……」
 右近は涙にむせび、鼻をかんだ。
「姫さまはいつお母さまが亡くなったことをお知りになったのですか。若い身空で、仏門に入られるなど……」
「仏門なんか入ってないわよ」
 私は目を丸くした。
「それでは、その御髪は……」
 右近は私の髪を指差した。この時代、尼になる人は長い髪を肩の辺りで切り揃えることを、私は思い出した。
「お母さまが亡くなったと風の便りに聞いて、どうしてよいかわからず、一度仏門に入ったの。でも乳母がうるさいものだから、最近還俗したのよ」
 私は口から出任せを言った。
 右近は少し首を傾げたものの、信じたようだ。
「ところでここはどこなの」
「京の五条にある、私の家でございます」
 右近は、寝台のそばに整えられていた着物を手にして、「まずはお召しかえを」と言った。
 右近に着物を着せてもらったが、その重いこと。十二単ではないものの、着物を四、五枚重ねるのだ。でも足は足袋を履くのではなく、裸足だ。スーツや靴、ハンドバッグは、白木作りの箱に仕舞われた。
 着替えが済むと、右近は女童(めのわらわ・女の子の召使)に食事を持ってこさせた。ご飯に、酢の物、汁物、などの簡単な料理だったが、空腹だった私はぺろりと平らげた。
「それにしても、乳母は一緒ではなかったのですか」
 食事が終わると、右近は尋ねた。
「途中まで一緒だったんだけど、はぐれてしまったの」
 私は、涙を拭う振りをした。お腹が膨れて、欠伸が出そうになり、本当に涙目になった。
「源氏のおとども、お喜びになるでしょう。今私は源氏のおとどにお仕えしているのです」
 おトド?
 一瞬、意味がわからなかったが、源氏の大臣(おとど)か、と頭の中で漢字変換できた。「夕顔さまが亡くなられた時も、大変なお嘆きで、姫さまのこともずっと気にかけていらっしゃいました。落ち着かれましたら、お目通りをしなくては」
 ともかく、物語は進行し始めた。
 私は平成の派遣社員から、平安時代の姫君へと転職したのだ。

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第1章(2)

「平安時代が何か?」
「ああ、まだ言っていませんでしたか。当社は人材派遣会社です。今の時代にはいっぱいありますよね。でも当社は、平安時代への人材派遣会社です。そこがニッチなところなんです」
「はあ」
 平安時代とニッチというのがうまく結び付かない。
「今回の求人は源氏物語です。玉鬘役なんですよ。玉鬘って知ってますよね。源氏の君の友人の『頭の中将(とうのちゅうじょう)』―今は出世して内大臣ですが―とその恋人の『夕顔(ゆうがお)』の間に生まれた女性です」
 源氏物語の中の、玉鬘の巻も大体は覚えている。
 頭の中将と別れた夕顔は、召使たちと幼い娘玉鬘と暮らしていた。その時に出会ったのが、十七歳の源氏の君。しかし一緒にいた時、夕顔が急死し、源氏の君は自分の名が噂になるのを恐れて、その時夕顔の供をしていた右近という女房を自分の邸に引き取ってしまった。他の召使たちは夕顔が行方知れずになったと思い、その後玉鬘の乳母の夫が筑紫(九州)に赴任し、玉鬘も連れて行ったのだ。成人した玉鬘が父親を頼ろうと京に上ってきて、玉鬘を探していた源氏の君に引き取られるという筋だ。
「その玉鬘の一行がどういう訳か、行方不明なんです。物語では、初瀬参りの宿で右近と玉鬘の一行が、偶然出会うことになっているのですが……。おおかた玉鬘の一行が途中で道に迷っているんでしょう。物語の展開で偶然を使うと、どうしても手違いが起こるんですよね。この間も、『とりかえばや物語』で……」
「あの~、私がやる仕事というのは……」
 私は安藤さんの言葉を遮った。嫌な予感がした。
「玉鬘になりすまして、その間に本物を探すんです」
 安藤さんはあっさりと答えた。
「信じられないのも無理はありません。面接で、怒って帰った人が何人いたことか。でもなかなかない経験ですよ。仕事場は六条院。源氏の君が恋人たちを住まわせるために造った、新しくて美しい邸です。セレブなスローライフが楽しめますし、源氏の君に引き取られたので、表向きは源氏の君の娘ですから、貴公子との出会いだってあります」
「でも、もし本物が見つからなかったら?」
「さあ……」
 安藤さんは曖昧な表情になった。
「でも今まで帰って来なかった人はいませんし、なんとかなりますよ。どの物語にも、現代との掛け橋役の人がいます。源氏物語の中では、『花散里』という女性です。都合のいいことに玉鬘の教育係です。いろいろ知恵を借りるといいでしょう」
 私が迷っていると、安藤さんは言った。
「衣食住はただですし、玉鬘が見つかったら、いつでも現代に戻れます。どうです? やってみませんか。リピーターの派遣社員もいるので、面白いと思いますよ。もちろん、それほどたくさんの求人は出しませんけど」
 現代でどんな仕事に代わったところで、ほとんど同じかもしれない。違う時代に生きるというのも、面白いだろう。
「やります」
 と私は答えた。
「注意事項が三つあります。玉鬘らしい言動をし、物語からなるべく外れないこと。誰にも物語がどうなるか話さないこと。現代についても話さないことです」
「わかりました」
「物語の中は旧暦です。今向こうは九月中旬頃でしょう」
 安藤さんは、書架から分厚い和綴じの本を取り出し、ページを繰った。途中までは文字が書かれているが、安藤さんが開いたページは真っ白だった。
「では、あなたを採用します」
 声が響いた――。

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第1章(1)

 古色蒼然。
 街灯に照らし出された、そのビルを見た時、四文字熟語が頭に浮かんだ。
 私は仕事の後、派遣会社に次の仕事の照会に行った帰りだった。今日で、派遣先の仕事の契約期間が切れた。一ヵ月前から仕事を探していたのだが、思うような仕事がなかなか見つからない。仕事照会の担当者は、「紹介予定派遣は、若い人がたくさん応募しているから無理だと思いますよ」と嫌味っぽく言った。
 明日からプー子か、と思った。それでも今の仕事が終わってホッとした。一年間働いたが、契約の業務内容は、『パソコンによる入力業務』なのに、実際はお茶くみやコピーが多かった。でも新しい仕事を探すのも、だんだん疲れてきた。
 正社員のオジサンなんか、仕事ができなくても威張っているし、高い給料をもらっているのに、とは思うものの、自分のパソコン資格も特技と言えないこともわかっている。
 コンビニに寄ろうとしたら、一本道を間違えたらしい。蒸し暑い日で、余計にくさくさした。引き返そうとした時、その古ぼけたビルが目に入ったのだ。  
 ドアに貼られた一枚の求人広告。
 それは見れば見るほど変な広告だった。
『急募!
 源氏物語を読んだことのある二十二歳くらいの女性
 髪のカラーなどしていない方。または黒く染められる方
 衣食住つき 委細面談
                    有限会社 平安堂』
 三回読みなおした。職種が何も書いてない。でも面白そうだ。
 私は短大の国文科で、源氏物語のゼミを取っていた。青表紙本などの写本の文字を判読したものだ。苦労したが、振り返ってみれば懐かしい。
 今私は二十七歳だ。年齢は条件と合わないが、履歴書持参とも書いてないし、とりあえず職種を聞くだけでも面白いかも、と思った。ビルの窓はまだ明るい。私は今時自動ドアでない、重いドアを開けた。
 ドアについたカウベルの音が響いて、一人の男が現れた。
「いらっしゃい」
 男はにこやかに言った。色白の太った男だった。
「求人広告を見たんですが」
 と言うと、
「では、こちらへ」
 と案内された。他に社員はいないのか、ひっそりとしている。かび臭い本が壁一面に並んだ書庫のような部屋の片隅に、ぽつんとテーブルとソファがあった。
「社長は生憎留守でして。私は営業の安藤です」
 安藤さんは背広の内ポケットを探った後、もそもそした声で続けた。
「生憎名刺を切らしておりまして……。求人は私が任されておりますので、まず履歴を伺いましょう」
 私は簡単に履歴を述べた。
 安藤さんは、たっぷりと肉のついた顎に手をやった。
「履歴については、申し分ありません。ただ年齢が五歳オーバーですね。髪も少し短いし……」
「は?」
 私は思わず聞き返した。髪の長さと勤務と、何の関係があるのだろうか。
「でもあなたは玉鬘(たまかずら)そっくりだ。肌も白いし、あなたほど今回の募集にぴったりの方は今までいなかったですしね。髪は付け毛でもすれば……」
 安藤さんは口の中でぶつぶつ呟いている。
「髪の長さとか、色の白さとかが仕事に関係あるんですか」
「平安時代の姫君は皆髪が長くて、色が白いですから」
 安藤さんは、にっこりして言った。



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