第5章(3)
そして、九月半ば。
採用されて、ちょうど一年経った。
「明日にでも、帰ろうと思います」
私は東の対を訪れ、花散里に言った。
「急に、どうして?」
彼女は驚いていた。
「玉鬘も見つかりましたし、私の仕事は終わりました」
「相変わらず本物は手がかかるから、できればもう少しいてほしいわ。……でも仕方ないわね。帰るべき所があるんだから」
「やりたいこともやっと見つかりましたので……。お世話になりました」
私は頭を下げた。
「……寂しくなるわ。本物には言ったの?」
「ええ、納得させるのが大変でしたけど」
私は昨晩の玉鬘の荒れ様を思い出して、苦笑した。
「そう。じゃあ、今晩はお別れの宴を開きましょう」
花散里は立ちあがった。
「そんなつもりで言ったんじゃありません」
「何水臭いことを言っているの。一年も一緒にいたのよ。夕霧も宰相の君も、右馬の助も呼んで、パーッとやりましょう! それじゃあ、早速用意しなきゃ」
花散里は、片目をつぶって見せた。
その夜、ご飯やお菓子を食べ、お酒も飲みながら、たくさん話をした。右馬の助はほんのちょっぴりしか飲んでいないのに、真っ赤な顔をしていた。酒豪に見えるのだが、弱いのだ。案外夕霧が強い。花散里もかなりいける口だ。私はほどほど。
「最初はどうなることかと心配したけどね。歌は暗記できないし、和琴も下手だし、ほとほと困ったわよ」
花散里が、笑いながら言った。
「でも最後までお姉さまには、浮いた噂の一つもなく終わりましたね」
夕霧がにやにやしていた。「やっぱり柏木でも紹介しておけばよかったかな」
「浮いた話なら……」
右馬の助が言いさして、意味深に片方の眉をあげた。夕霧が扇で手を打った。
「あ、ありましたね。小侍従とは! あの時のお姉さまの格好といったら!! 片袖とれちゃいそうだったし、顔色は真っ青で」
右馬の助は腹を抱えて笑っている。
「その話はやめて~!」
耳をふさいで叫ぶと、みんなどっと笑った。
玉鬘探しの苦労話や、源氏の君の悪口などで盛りあがって、私の退職パーティは夜更けなった。
最後に私が染めた布をみんなに贈った。どれも納得がいく色が出るまでやり直したものだ。
夕霧には、少し大人っぽい濃い縹色(はなだいろ・藍色)、花散里には桜色、宰相の君には茜、右馬の助は丁子染め、源氏の君には紫。源氏の君にはもちろん内緒だが、花散里が着物に縫い仕立ててくれるそうだ。いつか袖を通してくれる日もあるだろう。
「いろいろありがとう。夕霧のお蔭で結論が出たわ」
夕霧にそう言って布を渡したら、「ありがとう」と言ったきり、黙って涙ぐんでしまった。
私も涙が零れそうだったけど、
「やだな~、しんみりしないでよ!」
と言うと、夕霧も涙を拭いて笑った。宰相の君も赤い目をしていた。
「素晴らしい出来よ。裁縫では劣等生だったけど、染めは私の一番の弟子よ」
花散里が誉めてくれ、私は誇らしくて嬉しかった。
一人になってから、私は蔀を上げた。もう月はかなり西に傾いている。風がお酒で火照った頬に心地よい。虫の音がひそやかに聞こえてくる。
脇息に寄りかかり、そのままじっと朝になるのを待っていた。が、いつの間にかうたた寝をしたようだった――。
我に返ると、あたりは蛍光灯の光で眩しい。ハッとして見まわすと、かび臭い事務所。私は平安堂の応接室に座っていたのだ。
「お疲れ様でした。無事、玉鬘も見つかりましたね」
安藤さんがにこりと笑って言った。
「出勤簿に判をお願いします」
と言われて判を押したが、一個しか押すところがない。
「こっちの世界では一日でした」
安藤さんは、言った。
長い長い夢を見ていたみたいだった。
私は、家へ向かって歩き出したが、足元がふらついた。足と靴が全く馴染んでいない。
蒸し暑い夜だった。ちょうど平安堂に入った時と同じような。
額に汗が滲んで、ハンカチを取り出そうとしたら、ポケットから何か折り畳んだものが出てきた。 朝焼けのような色の薄様に、文字が書かれている。花散里の手跡だった。
わかれてふ 事は色にもあらなくに
今となっては懐かしい、古今和歌集の離別歌の上の句だ。
別れというものは色でもないのに、どうして色が布に染みるように、心に沁みて、辛いのだろう、という意味だ。
歌の後に、メッセージがあった。
「私も私なりに、この世界で、自分にしかできないと信じることをやっていきます。
お元気で。お互いに頑張りましょう」
懐かしい香りが、仄かに手紙から立ち上った。
あれから、半年。
私は今、草木染めの職人の弟子をしている。下働きでお給料はあるかないか、有休なんてとんでもない。でも今自分のやっていることは間違っていないと思える。師匠の手元を見ているだけでも勉強になるし、刈安などの草を刈り取ったり、材料を刻んだりする肉体労働すら楽しい。花散里の教えてくれたことの一つ一つが、今役に立っている。いつか、職人として一人前になったら、源氏物語のイメージで色を染めてみたい。
あれ以来、どこを探しても、平安堂は見つからない。
迷っている時、現れるのかもしれない。
もし、あなたが目の細い平安美人で仕事のことで迷っていたら、平安堂は次はあなたの前に、ある日出現するかもしれない。
(了)











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