5つの密室 (4号室)
ショッピングへ行こうと、女は部屋を出た。エレベーターで、以前見かけたことのある女性と一緒になったが、もちろんお互いに言葉は交わさない。
エントランスを出て暫く歩いてから、女は自分の住んでいるマンションを見た。最上階にとんがり帽子に似た小さな塔がついているかわいらしい建物だ。幸せな気分がぷくぷくと胸の奥からこみあげてくる。
三分ほど歩くと郵便局があり、さっきの女性は中へ入っていった。
女は近道をして、公園を横切った。若い母親たちが子供を遊ばせ、年寄りが数人ベンチに腰を掛けて、何やらお喋りをしている。ベンチのそばには、濃いピンクと白のツツジが咲き乱れている。遠くの芝生では、父親と少年がキャッチボールをしていた。のどかな風景を眺めていると、昨日仕事で小さなミスをして、上司に叱られて落ち込んだのが、遠い昔のような気がする。
公園を過ぎれば、繁華街はすぐそこだ。
今日は何を買おうかな、と心が弾む。
暑くなってきたから、半袖ブラウスがほしい。カジュアルなものにするか、大人っぽいものにするかは、店へ入ってから決めよう。
日曜日の目抜き通りは、人通りも交通量も多い。すっかり見慣れたビル街の一角に、お気に入りのブティックがある。
凝った造りの扉を開けると同時に、いつものように音量をオンにする。
「いらっしゃいませ」
店員が柔らかな笑みを浮かべ、丁寧にお辞儀をした。
「いつもありがとうございます。今日はどんな物をお探しですか」
「半袖ブラウスがほしいの」と女は答えた。
かしこまりました、という声が終わらないうちに、様々なデザインや材質の半袖ブラウスの写真が、次々に画面上に現れる。
女は、オーガンジーの襟の付いたブラウスが気に入った。素材は綿。パステルカラーが揃っていて、どの色もかわいい。
クリックすると、瞬時にそれを来た自分の姿が映し出される。オレンジ、ピンク、水色と試着したが、オレンジ色が一番似合っていたみたいだ。体型や細かなサイズは以前インプットしてあるので、実際に着てみるのとほとんど同じだ。
オレンジ色のブラウスの試着画面に戻す。
「よくお似合いですよ」とすかさず店員が言う。「以前こちらで買っていただいたチョコレート色のパンツにも、紺のスカートにもよく合いますし、今年風に着ていただくなら、柄物を合わせるといいですね」
ブラウスと花柄のキュロットスカートが組み合わせられる。
「じゃあ、両方いただくわ」
「ありがとうございました」
店員が笑顔で頭を下げた。
代金は自動的に通帳から引き落とされる。一週間もすれば、品物が送られてくるはずだ。
店から一歩出ると、途端に車の騒音や人々の話し声が押し寄せた。女は思わず顔をしかめ、すぐに音量をオフにした。街の喧騒は聞こえなくなる。
女は通りをぶらついて、本屋やアクセサリーの店を何件か冷やかした。しかしうるさくつきまとったり、嫌な顔をする店員は一人もいない。
CD―ROM“シティー”には、百貨店、専門店、美術館、ゲームセンター、図書館、占いの舘など五十件以上の店が揃っている。
ある雑誌で、シティーのソフト発売と同時に、仮想のマンションで暮らす『人嫌いの』人々を募るという広告に目を留め、女は面白そうだとすぐに予約した。マンションは倍率が高くて、抽選になったが、部屋を手に入れることが出来た。
女は休日と会社から帰ってからの時間をほとんどシティーで過ごしている。手に入れた部屋は、高級ホテルの一室のようで、ゆったりした空間にゴージャスな家具が揃っている。気に入らなければカーテンも家具もクリック一つで変えられるし、模様替えも簡単だ。
街へ出ても、人に気を遣うこととは無縁の世界。身動きも出来ないほど混んだ電車やバスに揺られて、他人の体臭に悩まされたり、排気ガスで気分が悪くなることもない。
シティーは、時間ごと、季節ごとにその顔を変える。日が昇り、日が沈み、それとともに物の影は方角や長さを変える。木々も紅葉し、落ち葉を落とし、春には新芽を吹く。景色は見飽きなかった。
歩道を歩きながら見ると、今街路樹の葉は柔らかな黄緑色で、空は薄曇りだ。昨日の雨で、緑は瑞々しさを増している。
現実の空をきれいだと感じたことがあっただろうか、と女は自問した。通勤の時は、せかせかと歩いているし、前を歩くサラリーマンの煙草の灰で洋服に穴が空かないかと気が気ではない。帰りは帰りで、同僚の愚痴に相槌を打ちながら、自分もいつまで同じ生活を続けているのだろうか、といつも空しくなる。
シティーでも、朝は架空のオフィス街に向かうサラリーマン、夕方は女子高生の集団が街中に現れる。しかし、誰一人、女に話しかけはしない。そういうふうには、プログラミングされていないからだ。
ふっと寂しくなって、女は音量をオンにしてみた。人々の会話が、耳に流れ込んでくる。自分に向けられていない、なんてことのないくだらない言葉の羅列でも、少し慰められた。
もしかしたら、エレベーターで会った女性も人恋しいのかもしれない。裏口を指示すれば、マンションの住人とも顔を合わせないでシティーへ出られるのだから。
街路灯が灯りはじめた。刻々と藍色が広がっていく空の下で、デパートの照明も輝きを増した。
そろそろ帰ろう。車も多くなってきたし。
歩行者の信号は青から点滅に変わったところだ。足早に横断歩道を渡りかけた時、突然眩しいヘッドライトが女の目を射抜いた。悲鳴にも似た急ブレーキの音が、響き渡る。
「ああっ!」
女はマウスから手を離し、顔を覆った。
タイヤの焦げるきな臭いにおいを、かいだような気がした。
「これで三件目ですね」
若い警察官の言葉に、年配の警官は眉をしかめた。
パソコンに向かったまま、息絶えている女の顔は恐怖に引きつっている。歳は三十歳前後だろう。太り気味で、青白い皮膚。乾いた血のような、コーヒーのシミが、女のTシャツの胸にべっとりと付着し、缶が床に転がっている。
埃っぽく、ごみごみとした室内を二人は見回した。片隅には、干からびた観葉植物。通信販売らしいダンボールがいくつも置いてあり、なかには封さえ開けてないものもあった。脱ぎ捨てられたままの衣服が床に落ちている。パソコンのそばには、できあいのサンドウィッチが食べかけのまま放ってある。
「心臓発作か」
「恐ろしいプログラムが組み込まれていたんですね。画面の中を走る車が、交通事故を起こすとは……」
「コンピュータにどっぷりとつかっている人間は、精神的に実際と同じショックを受けるんだそうだ。信じられなかったが、これだけ事件が続くと危険視せざるを得ないな」
「でもほとんど部屋に来る人がいないのに、発見が早かったのが、通帳の残高が足りなくて通報があったからなんて、皮肉な話ですよね」
若い警官は言って、パソコンに近づいた。ひとりでに、画面が明るくなる。
シティーが映し出された。
円錐形の塔のあるマンションの壁には、『空室あり』の幟が風にはためいている。
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