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2008年7月

5つの密室 (5号室)

 部屋に荷物を置くと、私は服を脱いだ。
 カーテンは閉めたまま、電気を点けた。部屋の空気は、少しだけひんやりとしている。
 鏡に裸身をさらす。
 体をひねり、側面や後ろも映してみる。首、胸、腕、背中、臀部、脚……。一つ一つのパーツを点検していく。十本の指先で、体をなぞるように触ってみる。違和感はない。指先に次第に力を込めて、掌全体で体を擦る。腕を強く抓ってみた。痛い。抓った部分が、うっすらと赤みを帯びた。皮膚の下に、青緑色に透ける静脈。
 少し痩せて、筋肉も落ちているけれど、今日退院したばかりなのだから当たり前だ。あとは以前と変わりないように思える。今までこれほど入念に体を観察したことはないけれど。

 三ヵ月前の事故が、嘘のようだ。
 出勤途中で、私は車のスピードを出しすぎ、対向車と接触しそうになった。パニックになってあまり覚えていないが、車は道路沿いの塀に叩きつけられ、炎上したらしい。私はすぐに病院へ運ばれたが、肋骨と大腿骨を骨折し、全身に火傷を負っていた。
 滑らかな皮膚をもう一度触ってみる。傷跡もない。完全な肉体。完璧な。
 大量の輸血、そして皮膚の移植。
 最善を尽くした、と担当の医師は誇らしげに言った。
 そう、私は『復元』された。
 数分間裸でいたら、鳥肌がたった。絨毯の上に脱ぎ捨ててあった衣服をゆっくりと身に着ける。腕を上げても膝を曲げてもどこも痛くないし、皮膚は弛んだり引きつれたりしない。肌の色や手触りも、事故の前と同じようだ。培養皮膚を移植したとは、とても信じられない。
 Tシャツから覗く、健康そのものに見える腕。
 人の口腔粘膜を培養して皮膚を作るという研究は、以前新聞やテレビで見たけれど、まさか自分が移植を受けるとは想像もしなかった。
 普段は忘れているのに、移植手術のことを考えると、自分の存在自体が薄気味悪く感じる。私の体を覆っている皮膚は、もともと誰の細胞だったのだろう。
 そんなふうに考えてしまうのも、事故の後遺症なのだろうか。大きな事故の後は神経質になる人もいる、と医師から聞いていた。
 私のような広範囲の火傷を治療する場合、健康な部位の皮膚を患部に移植できないため、培養皮膚を使うのが一般的なのだそうだ。現在では、培養した皮膚をシート状に保存しておく技術も確立されているらしい。
 鏡にくっつくほど顔を寄せた。顔や首には、少しは元の皮膚が残っているはずだが、どこまでが自分のものなのか、全く見分けがつかない。見つめ続けていると、以前の自分がどうだったか記憶まであやふやになりそうだ。息で鏡が曇って、私は呪縛が解けたように鏡から離れた。
 きれいに治っていることが不安なんて、贅沢な悩みだ。傷跡があれば、うろたえたり悩んだりするのはわかりきっている。私はたぶん納得したいのだ。でも、一体何に?
 窓を開け放つと、眩しい陽射しに一瞬目が眩んだ。強い風が室内の綿埃を吹き飛ばし、よどんだ空気を塗りかえていく。幾何学模様のカーテンが勢いよくはためいた。私はカーテンの模様があまり目に入らないように、タッセルでくくった。落ち着かない気分にさせる何かが存在するのだ。
 カーテンだけではない。毛足の長い絨毯も、数少ない食器さえ、神経に引っかかる。どれも一人暮しを始めたときに自分で選んだ、ささやかな生活のためのものだ。
 長い間部屋を空けていて生ずる違和感ならば、もう消えてもいいはずなのに、ざわざわとした気持ちは膨らむ一方だ。ここでどう自分が過ごしてきたかも覚えているのに。
 歩くたびに足裏に絨毯がべたついて感じるのは、埃のせいだけではなさそうだ。皮膚が変わって、自分の感覚や好みまでも変化してしまったのだろうか。それとも、大量の輸血のせいだろうか。部屋全体が、主はお前ではない、と主張している。
 マンションは静まりかえっていて、自分のたてる物音しかしない。今まで全然交流はなかったけれど、隣の人たちはどうしているのだろう。
 一人ぼっちというより、自分の亡霊と向かい合っているような気がした。これから私がどうするのか、どうなっていくのか、観察している。
 埃のせいか喉がかれて痛み、暑くもないのに、いつの間にか掌に汗をかいていた。
 ケトルにお湯を沸かす。お湯が沸くまでの間に、冷蔵庫の中の腐ったものや賞味期限を過ぎたものを次々にゴミ袋に放りこんだ。洗濯機にシーツとパジャマをまとめて放りこみ、スイッチを押した。
 考えなければという気持ちと何も考えたくないという気持ちが錯綜している。この部屋から以前の自分を追い出してしまおうというつもりもないけれど。
 ケトルがやかましく音をたてるまでわざと放っておいた。食器棚に入っている、アールグレイの大きな紅茶の缶を無視して、一番シンプルなカップにインスタントコーヒーをいれた。火傷しそうに熱いコーヒーが喉を下っていく。以前の私は、ほとんどコーヒーを飲まなかった。
 コーヒーを飲み干すと、キッチンから大きな鏡のついた洋服ダンスの前に戻った。
 洋服の趣味は変わってないが、タンスの中の衣類を身に着けることを考えると、生理的に嫌だ。今着ている服も、病院の売店で買ったものだ。
 医師の言う通り、事故のショックで一過性のものなのだろうか。わからない。わからないけれど、これからも生きていかなければならないことだけが、確かなことだった。
 留守番電話のランプが点滅している。再生すると、何件かのメッセージの後、聞き慣れた友達の声が流れ出した。
 病院へ見舞いに行ったけれど、まだ面会できなかった、退院したら連絡してほしい、という内容だった。出張の日程と休みの日も事細かに入っている。
 今日はちょうど彼女が休みの日だった。私は少しためらった後、受話器を手に取った。
 携帯の電話番号をそらで押すと、すぐに彼女が出た。
「体は大丈夫?」
 柔らかくてゆったりした彼女の声を聞いた途端、私は心がほどけていくのを感じた。まあるい笑顔も思い出した。
「もう、大丈夫」
 明るく答えて、自分で自分のしっかりとした声の響きに勇気づけられる。
 彼女も弾んだ声になって、すぐ会える? と聞いた。
「お茶でも飲もうよ」
 いいね、と私は答えた。待ち合わせ場所を決めて、受話器を置いた。
 窓から見下ろすと、道路には車が走り、たくさんの人が行き交っている。振り返って鏡を覗くと、その中の私は最初より柔らかい表情になっている。もう一度、滑らかな自分の皮膚に触れる。ゆっくりと、なぞるように。
 化粧をしようかと迷ったけれど、やめた。ファンデーションも日焼け止めさえつけないで、リップクリームだけを塗った。少し、怖いけれど。たぶん、彼女は大きく手を振って、いつもと変わらない笑顔でこう言うだろう。元気そうね、と。
 玄関でスニーカーの紐をきつく結ぶ。深呼吸すると、私は部屋の扉を開けた。
 外は眩しく、陽の光に満ちていた。

                                   (了)

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5つの密室 (4号室)

 ショッピングへ行こうと、女は部屋を出た。エレベーターで、以前見かけたことのある女性と一緒になったが、もちろんお互いに言葉は交わさない。
 エントランスを出て暫く歩いてから、女は自分の住んでいるマンションを見た。最上階にとんがり帽子に似た小さな塔がついているかわいらしい建物だ。幸せな気分がぷくぷくと胸の奥からこみあげてくる。
 三分ほど歩くと郵便局があり、さっきの女性は中へ入っていった。
 女は近道をして、公園を横切った。若い母親たちが子供を遊ばせ、年寄りが数人ベンチに腰を掛けて、何やらお喋りをしている。ベンチのそばには、濃いピンクと白のツツジが咲き乱れている。遠くの芝生では、父親と少年がキャッチボールをしていた。のどかな風景を眺めていると、昨日仕事で小さなミスをして、上司に叱られて落ち込んだのが、遠い昔のような気がする。
 公園を過ぎれば、繁華街はすぐそこだ。
 今日は何を買おうかな、と心が弾む。
 暑くなってきたから、半袖ブラウスがほしい。カジュアルなものにするか、大人っぽいものにするかは、店へ入ってから決めよう。
 日曜日の目抜き通りは、人通りも交通量も多い。すっかり見慣れたビル街の一角に、お気に入りのブティックがある。
 凝った造りの扉を開けると同時に、いつものように音量をオンにする。
「いらっしゃいませ」
 店員が柔らかな笑みを浮かべ、丁寧にお辞儀をした。
「いつもありがとうございます。今日はどんな物をお探しですか」
「半袖ブラウスがほしいの」と女は答えた。
 かしこまりました、という声が終わらないうちに、様々なデザインや材質の半袖ブラウスの写真が、次々に画面上に現れる。
 女は、オーガンジーの襟の付いたブラウスが気に入った。素材は綿。パステルカラーが揃っていて、どの色もかわいい。
 クリックすると、瞬時にそれを来た自分の姿が映し出される。オレンジ、ピンク、水色と試着したが、オレンジ色が一番似合っていたみたいだ。体型や細かなサイズは以前インプットしてあるので、実際に着てみるのとほとんど同じだ。
 オレンジ色のブラウスの試着画面に戻す。
「よくお似合いですよ」とすかさず店員が言う。「以前こちらで買っていただいたチョコレート色のパンツにも、紺のスカートにもよく合いますし、今年風に着ていただくなら、柄物を合わせるといいですね」
 ブラウスと花柄のキュロットスカートが組み合わせられる。
「じゃあ、両方いただくわ」
「ありがとうございました」
 店員が笑顔で頭を下げた。
 代金は自動的に通帳から引き落とされる。一週間もすれば、品物が送られてくるはずだ。
 店から一歩出ると、途端に車の騒音や人々の話し声が押し寄せた。女は思わず顔をしかめ、すぐに音量をオフにした。街の喧騒は聞こえなくなる。
 女は通りをぶらついて、本屋やアクセサリーの店を何件か冷やかした。しかしうるさくつきまとったり、嫌な顔をする店員は一人もいない。
 CD―ROM“シティー”には、百貨店、専門店、美術館、ゲームセンター、図書館、占いの舘など五十件以上の店が揃っている。
 ある雑誌で、シティーのソフト発売と同時に、仮想のマンションで暮らす『人嫌いの』人々を募るという広告に目を留め、女は面白そうだとすぐに予約した。マンションは倍率が高くて、抽選になったが、部屋を手に入れることが出来た。
 女は休日と会社から帰ってからの時間をほとんどシティーで過ごしている。手に入れた部屋は、高級ホテルの一室のようで、ゆったりした空間にゴージャスな家具が揃っている。気に入らなければカーテンも家具もクリック一つで変えられるし、模様替えも簡単だ。
 街へ出ても、人に気を遣うこととは無縁の世界。身動きも出来ないほど混んだ電車やバスに揺られて、他人の体臭に悩まされたり、排気ガスで気分が悪くなることもない。
 シティーは、時間ごと、季節ごとにその顔を変える。日が昇り、日が沈み、それとともに物の影は方角や長さを変える。木々も紅葉し、落ち葉を落とし、春には新芽を吹く。景色は見飽きなかった。
 歩道を歩きながら見ると、今街路樹の葉は柔らかな黄緑色で、空は薄曇りだ。昨日の雨で、緑は瑞々しさを増している。
 現実の空をきれいだと感じたことがあっただろうか、と女は自問した。通勤の時は、せかせかと歩いているし、前を歩くサラリーマンの煙草の灰で洋服に穴が空かないかと気が気ではない。帰りは帰りで、同僚の愚痴に相槌を打ちながら、自分もいつまで同じ生活を続けているのだろうか、といつも空しくなる。
 シティーでも、朝は架空のオフィス街に向かうサラリーマン、夕方は女子高生の集団が街中に現れる。しかし、誰一人、女に話しかけはしない。そういうふうには、プログラミングされていないからだ。
 ふっと寂しくなって、女は音量をオンにしてみた。人々の会話が、耳に流れ込んでくる。自分に向けられていない、なんてことのないくだらない言葉の羅列でも、少し慰められた。
 もしかしたら、エレベーターで会った女性も人恋しいのかもしれない。裏口を指示すれば、マンションの住人とも顔を合わせないでシティーへ出られるのだから。
 街路灯が灯りはじめた。刻々と藍色が広がっていく空の下で、デパートの照明も輝きを増した。
 そろそろ帰ろう。車も多くなってきたし。
 歩行者の信号は青から点滅に変わったところだ。足早に横断歩道を渡りかけた時、突然眩しいヘッドライトが女の目を射抜いた。悲鳴にも似た急ブレーキの音が、響き渡る。
「ああっ!」
 女はマウスから手を離し、顔を覆った。
 タイヤの焦げるきな臭いにおいを、かいだような気がした。
「これで三件目ですね」
 若い警察官の言葉に、年配の警官は眉をしかめた。
 パソコンに向かったまま、息絶えている女の顔は恐怖に引きつっている。歳は三十歳前後だろう。太り気味で、青白い皮膚。乾いた血のような、コーヒーのシミが、女のTシャツの胸にべっとりと付着し、缶が床に転がっている。
 埃っぽく、ごみごみとした室内を二人は見回した。片隅には、干からびた観葉植物。通信販売らしいダンボールがいくつも置いてあり、なかには封さえ開けてないものもあった。脱ぎ捨てられたままの衣服が床に落ちている。パソコンのそばには、できあいのサンドウィッチが食べかけのまま放ってある。
「心臓発作か」
「恐ろしいプログラムが組み込まれていたんですね。画面の中を走る車が、交通事故を起こすとは……」
「コンピュータにどっぷりとつかっている人間は、精神的に実際と同じショックを受けるんだそうだ。信じられなかったが、これだけ事件が続くと危険視せざるを得ないな」
「でもほとんど部屋に来る人がいないのに、発見が早かったのが、通帳の残高が足りなくて通報があったからなんて、皮肉な話ですよね」
 若い警官は言って、パソコンに近づいた。ひとりでに、画面が明るくなる。
 シティーが映し出された。
 円錐形の塔のあるマンションの壁には、『空室あり』の幟が風にはためいている。

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5つの密室 (3号室)

  本棚の上に、マニキュア。
 彼女が忘れていったものだ。僕は、小さな瓶を手に取った。とろりとした赤い色。
 白くて細長い指や形のいい爪を彼女は自慢していて、マニキュアのコレクションはまるで化粧品店のカウンターがそのまま引っ越してきたみたいだった。
 レモンイエローや桜色、鮮やかな水色、夜空の中にきらきらした星屑が入っているようなのや、カフェオレ色のマニキュア。
 でも、赤いのが彼女には一番よく似合った。
 僕は爪の手入れをくそ真面目な顔でしている彼女を、横から見ているのが好きだった。甘皮を押し上げて、ベースを塗り、カラーリングをしてトップコートを重ねる。一連の作業は慎重かつ丁寧に行われ、大切な儀式のようだった。
 瓶を元の場所に戻した。今更センチメンタルになって何になるのだろう。彼女は、僕を置いていってしまったのだから。
 最近の彼女は、今から思えば様子が変だった。
 昨日、彼女はいつものように風呂上りのピンク色の肌で、マニキュアを塗り始めたが、どこか上の空だった。
「マニキュア、はみ出てるよ」
 彼女はそれには答えないで、ふと思い出したように僕の左手の傷跡を指差した。
「その傷、どうしたの?」
「ああ、これ?」
 左手を差し出すと、彼女は体を少し避けるようにした。傷跡は、掌と手の甲の小指側にあって、今はほとんど目立たないけれど、少し引きつれている。
「子供の頃、飼っていた犬に噛みつかれたんだ」
 と、僕は答えた。
「尻尾が短くて足も短い種類だったけどかわいい目をしてた」
 君に似てたかもしれない、と付け加えた。足が短いって言うの? と頬を膨らませるかと思ったのに、彼女は無表情で、自分の指先ばかり見つめていた。
「散歩に連れて行ったり、一生懸命世話をしたのに、犬は僕に懐かなかった。両親には全身でじゃれついたり、甘えたりするのに、僕にはおざなりに尻尾を振ってみせるだけだった。犬のくせに、僕の愛情に報いない。僕はある日、犬に石を投げつけた。横腹に当たって、犬は高く悲鳴を上げた。でも次の瞬間、跳びかかってきて手に噛みついた。驚いて引っ張ったら、傷口が裂けて血がすごく出て、僕は大声で泣いた。両親が駆けつけてきて、僕を病院へ担ぎ込んだ。それきり、犬の姿は見えなくなった」
 彼女は、「そう……」と言ったきり、また黙りこんでしまった。

 部屋中にまだ彼女の気配が充満している。オリエンタルな香水のかおり。二つずつの食器。カーペットに絡みついた長い髪の毛。
 でも彼女の痕跡も、例えば掃除したり窓を開けたりするたびに嫌でも薄れていくのだろう。そう思うと、毎日掃除機をかけていたのに何もしたくなくなった。洗濯機は回っているけれど。どんなときでも汚れた服を着るのは気持ちが悪いから。
 タンスの上の写真立てに入っているのは、初デートで遊園地へ行った時のものだ。
 彼女はとても魅力的だったから、連れて歩くと男たちの羨望の眼差しが快感だった。でも快感だったのは、最初だけだった。次第に僕は怖くなってきた。
 彼女は、男たちに無関心を装ってはいるものの、自分が見られるのは当然というように僕に笑ってみせるのだ。
 僕は彼女を部屋から出さなくなった。二人で行っていた買い物も一人で済ませ、友達との約束もキャンセルさせた。それでも安心できなかった。彼女は僕が不安になるのに比例して口数が少なくなっていった。
 マニキュアを塗る時の神経質さとは裏腹に、彼女は生活態度がだらしなかった。家事もあまりしなかったけど、僕はただ彼女が傍にいればよかった。
 今だって、荷物は僕の部屋に置きっぱなしだ。「好きな人が出来た」と、僕にとっては青天の霹靂みたいなことを平気で口にして、「バイバイ」と言った彼女の顔が忘れられない。済まなそうにしていたけれど、眼の奥は僕を笑っていた。別れを告げたときも、彼女は赤いネイルをしていた。
 まるで猫みたいに、僕の心にいつの間にか勝手に入り込んできて、勝手に出て行こうとする。欲しいものはバッグも服も全部買ってあげたのに、何が不満なのだ。僕はまだ彼女が好きだった。僕のテリトリーから逃がしたくなかった。もともと彼女が望んで入ってきたのだ。この部屋のドアを開けるのは僕であって、彼女ではない。小さい頃から僕は全部自分の思い通りにしてきた。彼女だって思い通りにならないはずがない。逃がしはしない……。
 その後、僕はどうしたのかよく覚えていない。気がつくと、彼女は消えていた、僕の前から。
 あれこれ考えても始まらない。シャワーでも浴びて、頭をすっきりさせよう。
 僕は浴室に入った。
 そこに彼女がいた。
 浴槽に浸かっていた。浴槽の角に頭をもたせかけて、首を不自然に右に傾げ、アーモンド形の目を驚いたように見開いている。長い黒髪が水中に広がっていて、真っ赤な水の表面は波一つ立っていない。包丁の柄が、彼女のしろい腹部から生えている。
 赤い水の中の彼女。
 僕は微笑んだ。
「やっぱり、君には赤が似合うよ」

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5つの密室 (2号室)

 キッチンに立っていると、ふわふわしたものが足首にまとわりついてきた。アイダが尻尾を振って、濡れた大きな目で私を見上げている。遊んでほしいのだ。
 私はしゃがんで、頭をなでてやる。彼(彼女?)はいっそう体を擦り寄せてくる。
「今、お昼ご飯作っているから、あとでね」
 と言うと、ちょっと拗ねた顔をしたが、アイダは大人しく部屋の隅で丸くなった。暖かな陽射しが当たって、茶色い毛が金色に見える。背中がゆっくりと上下している。うたた寝しているようだ。
 平日はほったらかしだから、日曜日くらいは遊んでやらなくちゃ、と思う。スキンシップをしないと性格が悪くなるらしいけど、義務ではなくて、アイダといるのは本当に楽しいし、安らげる。
 私が昼ご飯を食べる間も、アイダは傍でじっとしていた。彼は飼い主のご飯が自分のご飯じゃないと知っているから、ねだったりしない。
 私は一さじずつお粥を口に運んだ。
 さっき計ったら今日も微熱があるし、最近疲れやすい。仕事は忙しいし、帰宅しても一人暮しだと何かとすることが多くて、お腹が空くのも食事の仕度も煩わしい。
 どうして一日三食、食べなきゃならないのかしら。栄養剤を何粒か飲めば満腹になればいいのに。
 ため息をつくと、アイダがスカートの端を引っ張った。膝に抱き上げると重いけれど、温かい体温を感じてホッとする。私の膝小僧をなめるピンク色のざらっぽい舌。くすぐったいよ、と頭をぶつふりをすると、跳びあがってよけた。甘えたい時の彼の吼え声は小さいし、怒って吼えたことは今までない。
 以前隣の人が犬を飼っていて、うるさいとマンションの管理人が怒っていたけれど、ああいう犬を飼う人の気が知れない。
 ボール遊びをしてから、一緒に音楽を聞くというのが、いつものパターンだ。私の好きな音楽にアイダが付き合ってくれているだけかもしれないけれど。
 次はブラッシングタイム。ノミや虱とは無縁なのだけど、毛並みはよくなる。アイダも気持ちよさそうに目を閉じて、時々ゆっくりと尻尾を振る。
 ブラッシングが終わると、アイダが五回吼えた。餌の催促だ。私は銀色のリチウムボタン電池を二つ、彼に与える。
 アイダはそれをこくりと飲み込む。食事時間はわずか一秒だ。電池は自動的に組み込まれるべきところに組み込まれる。以前のロボット犬は、大きなバッテリーで充電しなければならず、見た目もいかにも機械という感じだったらしい。今もアイダのハウスは充電用だから、電池も一週間に二つ消費するだけだ。
 暫くすると、アイダがすみっこに行って、用をたした。本物の犬のように力むと、古いリチウム電池が出てくる。目下の問題は、電池の再利用だが、これはまだ解消されていない。
 しつけは一度で覚えるし、散歩をさせても、させなくてもいい。部屋を汚さないし、ペットの臭いもつかない。予防接種に引っ張って行く手間や出費も省ける。故障した時は、販売元に電話すればいいのだ。
 AIDA(アイダ)というのは、彼らの商品名なのだけれど、私は彼を見た時にぴったりだと思って、そのまま呼んでいる。(製造元によると、犬とロボットの『間』という安直なネーミングのようだ。)
 私の友達はアメリカンショートヘア猫ロボットを飼っている。喉の鳴らし方やすんなりとした歩き方、しっぽの柔らかく敏捷な動き、どれをとっても本物そっくりだった。鳴き声をメロディーに変えることもできるけど、邪道だわ、と友達は言った。私も同感だ。私はカタログで、ゴールデンレトリバーの子犬に似たものを選んだ。
 AIDAには、三十人まで人を覚える能力がある。泥棒が侵入した場合、彼らは侵入者が知人ではないと判断した後、内蔵されたコンピュータが警備保障会社に速やかに通報し、アイカメラで撮った画像も転送されるシステムになっている。場合によっては吼えたり跳びかかることもあるそうだ。火災やガス漏れの際も通報される。毎月通帳から警備保障会社に掛け金が落ちるけれど、一人暮しの安全を秤にかければ、安い金額だ。現実に彼らがペットとして普及してから、空き巣が減ったと、新聞に載っていた。
 暫く私はアイダと遊んでいたが、急に胸がむかついて、トイレに駆け込み、胃の中のものを全部吐いてしまった。 顔を洗い、ぐったりとした体を引きずって出てくると、アイダがドアの外にいた。彼は不思議そうな目で私を見た。
 私はこの頃、複雑な気分にかられる。
 アイダに比べると、人間ってなんて面倒くさくて、汚い生き物なんだろう。お腹の子供もアイダみたいに世話が簡単で、かわいければいいんだけど。

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5つの密室 (1号室)

 どこかで音が響いていて、ジーンというようなビーンというような金属的な響きがずっと続いているので、ぼくは耳を澄まして部屋をあちこち歩きまわったけれど、冷蔵庫の音じゃないし、電子レンジが壊れたわけでもないし、ステレオはスイッチが入ってなくて、テレビも消したから、蛍光灯が切れかけているのかと思ったが違っていた。
 強弱のない平板な音で、耳の奥に滞る感じ、他のことを考えようとしても、頭の中に侵入して執拗に響きつづける。あ、音が止んだ。また始まった。その間はわずか十秒ほどで、なんだろう、なぜ鳴り止まないのだろうと考えても、携帯の着信音とは似ても似つかない音だし近頃これが鳴ったことはなく、部屋中を歩きまわっても、どうしても原因がわからないけれど、音はまだ聞こえている。毎日寝てばかりいるから、頭までどうかしてしまって、こんな音が頭の中でするようになってしまったのか。でもぼくが悪いんじゃない。ぼくがわるいんじゃなくて病気が悪いのだ。睡眠障害という病気が悪いのだ。今だって目が覚めたら真夜中で、どうしてもそういう時間に目が覚めてしまって(ところで今日は一体何日の何曜日なんだろう?)、朝目が覚めても、体は起きていても頭は眠っている状態が多くて、髭を剃って煙草を吸ってコーヒーを飲んだだけで、数時間経っていたりして、両親にしっかり目を覚まして行動しろと言われても叱られるとますます眠たくなった。朝起きて、光刺激という電気の光を浴びる治療法も起きられないから続かなかったけれど、怠けているわけではないのに、みんなぼくのことを怠けていると言うのだ、いつもいつも。
 唐突に音が止み、余韻がなく、本当にパタリと止んだが、すぐに始まって、耳がジンジンしてきたが、音は玄関の方ではなくて、窓側から響いてくるみたいだ。ここはマンションの一室、みんなぼくを見捨てたのだ。家賃は払ってくれているけれど、捨てたことには変わりはない。ぼくだってせいいっぱいやってだめだったのに、病気が治らなくて一番がっかりしているのはぼく自身なのに、家族は冷たくて、お金を稼げなければ人間じゃないみたいにぼくに当たり、弟は軽蔑と苛立ちを含んだ目で見るし、父親はただ罵るだけ、根性が腐っている、不真面目だ、ものの考え方がまともじゃない、恥を知らないetc.この体で何ができるか教えて欲しいのはぼくのほうだ。何もできやしない。学生時代から朝起きづらく夜目が冴えるほうだったけれど、会社に入ってからひどくなって、営業でお客さんの所を回らなければいけないのに、眠くてどうしようもなくなり、何度も車の中で眠ってしまって、とうとう会社はクビになった。こんな体に苛々しているのは誰よりも自分なのに、音は続いていて、空気まで痺れてくるようで、どうしても止まない。いろんな科のたくさんの医者にかかっても治らなかったぼくの病気、医者だって治る患者には優しいけれど、見込みがなさそうだと、だんだん態度に苛立ちが表れてきて、俺が無能だから治らないんじゃなくてお前が悪いんだ、と言葉には出さなくても目を見ればわかるけど、病気さえ治れば、ぼくの人生だってこんな宙ぶらりんじゃないのに、と思考はいつもそこで止まって進まない。進歩がないというのはよく母親に言われたことで、病気を良くするように考えなければいけない、毎日きちんと運動しなさい、と繰り返し言われて、寝てばかりいて心臓も弱っているのはぼくだってわかっているけれど、頭がすっきりすると今度は体がだるくて、運動などとてもやる気になれず、昼過ぎに起こしてもらっても、それが一週間続くと頭も体も耐え切れなくなって、二十四時間以上眠ってしまう。眠っているというよりは死んでいるのに近い時間だから、耳元で怒鳴られようが、体を抓られようが感じないし、覚えてもいない。食事を作ってもらっても二食分の食事がたまってしまうし、その次の日は眠れなくて二十四時間近く起きていたりして、自分でも起床時間が見当もつかないから、毎日の計画も立てられない、というのはたまたま昼に自分で起きられても、次の日は夕方になるかもしれないし、夜中になるかも、夜中にしか起きられないと家族はとても不愉快な顔をして、やりたい放題やっていると責めるけれど、ぼくだって好きで遅く起きているんじゃないのに、起きられないつらさや悲しさなどこれっぽっちも理解しようとしないのだ。早く寝ないから朝起きられないのだ、と枕をいくつ買い換えてもらっても、母親に体をさすってもらっても、睡眠薬を飲んでも、眠れないときは何をしても無駄で、ようやく眠りにつくと、朝方から眠りが深くなってしまう。四六時中肩や背中が凝っていて、体をさすったりして三十分以上かかって起こしてもらっても、楽になると気持ちが良くなってまた眠ってしまって、母はぐしゅぐしゅ泣いた。済まない気持ちはあるけれど、そのときの記憶がないから仕方がなくて、病気が悪いのだけれど、一日に何回も体を揉ませたら、母は疲れ切って寝こんでしまった。
 一人で生活することになったのは、両親も歳だから仕方がないけど、環境が変わっても起きられないのは同じで、夜中に電子レンジを使っても足音を立ててもうるさいと文句を言う人もいないかわりに、食事の仕度をしてくれる人もいないけど、さすがに夜中に洗濯機を回すわけにもいかず、ランドリーボックスには汚れ物がうずたかくなっている。マンションの住人たちも、ぼくがたまに昼出歩いていると、なぜ働いていないんだという視線を浴びせるし、コンビニで求人雑誌を立ち読みしても、雇ってくれそうな所など一つもなく、そんなぼくを嘲笑うかのように続いている金属的なやかましい音は、やはり窓の方からで、カーテンを開けると、何かが窓の外側に張りついていて、よく見ると、五センチはあろうかという緑色の大きなバッタに似た昆虫。ガラスに触れた腹は毒々しい黄緑色だったが、羽をふるわせているにしてはすごく大きな音で、ガラスに反響しているのだろうが、もう五分以上途切れなく鳴いていて、よく疲れないな、と拳で窓を叩いたが、一瞬鳴き止んだけでまた鳴き出した。ずうずうしいヤツだ。
 ぼくは窓を開けて、腕を外へ伸ばし、蝿叩きでつぶすと、黄緑色の腹がぺしゃんこになって緑色の体液が流れ出し、足が一本取れて、まどにべったりとくっついて気持ちが悪いが、どうしていいかわからなくて、窓を閉めてカーテンも閉めた。雨が降れば死骸は流れ落ちてしまうだろうが、週間予報では確かずっと晴れだった気がして、そうするとずっと死骸が窓に引っ付いているのか、どうせ起きなければカーテンも窓も開けないから関係ないか、とにかく音はしなくなったのだから。でも一人の部屋が余計に静かになった。静か過ぎるほどに。

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