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第2章(2)

 そして十月吉日。いよいよ今日、私は六条院に乗り込むのだ!
 六条院は、四季の御殿に分かれている。春の御殿には、源氏の君と妻の『紫の上』、『明石の姫君』(源氏の君と恋人『明石の御方』の間に生まれた)が住んでいる。夏の御殿には、『花散里』と、源氏と亡くなった正妻の間に生まれた息子『夕霧』。秋の御殿には、養女の『秋好(あきこのむ)中宮』。そして冬の御殿には『明石の御方』が暮らしている。
 私が住むのは、夏の御殿の西の対である。
 西の対に足を踏み入れた。調度品のことはよくわからないが、どれも真新しく、高そうだ。
 私は御簾ごしに庭を眺めた。りんどうや菊が盛りだ。さやさやと葉が擦れ合う音が聞こえる。
 静かだ。平日の昼間だというのに、音はほとんどしない。たまに女童の立てる足音や女房の衣擦れの音が聞こえるくらいだ。
 こんなにゆったりした時をすごすのは久しぶり。
 今頃会社なら、時間に追われて、電話を取ったりパソコンに入力したり、書類をチェックしたりしているところだ。昼休みも、後輩の女の子の騒がしさにげんなりしていた。
 私は、りんどう襲ねの衣に包まれて、おもむろに扇を開き、その陰でちょっと笑った。

 夜、源氏の君が、西の対に渡ってきた。私は短い髪を隠すため、かもじをつけていた。かもじとはエクステンションのことだ。人毛だから気持ちが悪いのだが、見た目は自然で、着物にさらりと掛かっている様は、我ながら姫君っぽかった。
 源氏の君が来ると言う先触れの声が聞こえ、華やかで艶かしい香りが漂って来た。几帳の透き間から覗くと、着物だけがちらりと見えた。薄い藍色の直衣(のうし・上着)に、濃紫の紋の浮き出た指貫(さしぬき・袴の一種)。
 源氏の君は、几帳を押しのけた。
 これこそ、王朝ロマンの世界だわ!
 私のドキドキは最高潮だった。
 源氏の君は美しい男だった。肌は白く滑らかで、整った目鼻立ち。確か玉鬘の巻だと、三十五歳のはずだが、若く見える。
 源氏の君は、苦笑いした。
「君は、母上と違って物怖じしない人だね」
 平安の姫君になったのを忘れて、私は穴の開くほど、源氏の君の顔を見ていた。
「すみません」
 私は慌てて俯いた。
「それより、君が無事でよかった」
 源氏の君は扇を広げて、顔にかざして涙をぬぐった。仕草がなよなよとして女っぽい。
「これからは私が親代わりだから、安心してください」
 源氏の君は言いながら、馴れ馴れしくすぐ傍まで寄ってきた。
「いい香りだね。荷葉とも違うし……」
 私は、いまだにハンドバッグに入れてあったお気に入りの香水を使っていた。
「ニナ……」
 ニナ・リッチのレベル・ドゥ・リッチ2です、と言いかけた。
「にな?」
 源氏の君は、怪訝そうに聞き返す。
「い、いえ、私が育った田舎には、ニナという霊木があるのです。その実から取った香ですの」
「へえ、珍しい。そのうち、秘伝の調合法を伺いたいね」
 源氏の君の言葉に、血の気が引いた。
「唐菓子でございます。お召し上がり下さい」
 右近の言葉に、源氏の君がさっと振り返った。お皿には珍しいお菓子が盛られていた。ねじった形のものやゴマがついたものなど、いろいろ種類がある。
「君も食べたら?」
 源氏の君はすでにリスみたいに頬張っていた。つまんでみると、味はドーナツに似ていておいしかった。
 源氏の君はせっせと口に詰め込んでいる。その嬉しそうな顔といったら、子供みたいだ。相当の甘党みたい。
 源氏の君は全部食べてしまうと、右近に色々と用事を言いつけてから、「まだ疲れているみたいだから、もう帰るよ」と言った。
「じゃ~ね」と源氏の君は笑顔で、私に手を振った。
 ……じゃ~ね、って。


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