第1章(3)
最初に目に映ったのは、四十過ぎくらいの面長な女性だった。心配そうな顔で私の顔を覗き込んでいる。
「姫、姫さま、お気づきになられましたか。私がわかりますか? 夕顔さまにお仕えしていた右近です」
私はガバッと起きあがり、辺りを見まわした。そこは、さっきまでいたかび臭い事務所ではなく、畳敷きの広い部屋だった。寝台の四方には帳があり、外には屏風が立ててある。他の調度品も現代とは全然違う。右近と名乗る女性は、渋い色合いの着物を何枚も重ねている。
本当に、採用されちゃったんだ。
平安堂より参りました、小早川ハナコです! よろしくお願いします、って名乗る訳にもいかないんだよね。
私は、自分に着せ掛けられていた、薄紫色の着物を見ながら思った。
しかし、次の瞬間、ギョッとした。着物の下が、洋服だったのだ。会社帰りに着ていた紺のスーツ。
「……お脱がせしようと思ったのですが、どうやっったらいいのかわからなくて……」
右近は眉をひそめていた。
「これは、えーっと、田舎で流行っているのよ」
苦し過ぎる言い訳をしつつ、心の中で平安堂の安藤さんを罵倒した。
物語の通りに行動しろって言ったくせに、怪しまれちゃうじゃないの。制服くらい支給しなさいよね!!! 全く派遣会社の営業って、どこも全然頼りにならない!
「でも本当に驚きましたわ。初瀬参りの帰りに泊まった宿の前に姫さまが倒れていらっしゃったのですもの。夕顔さまに似ていらしたし、昔の面影もありましたから、もしやと思いましたが……。これも仏様のお導きかと……」
右近は涙にむせび、鼻をかんだ。
「姫さまはいつお母さまが亡くなったことをお知りになったのですか。若い身空で、仏門に入られるなど……」
「仏門なんか入ってないわよ」
私は目を丸くした。
「それでは、その御髪は……」
右近は私の髪を指差した。この時代、尼になる人は長い髪を肩の辺りで切り揃えることを、私は思い出した。
「お母さまが亡くなったと風の便りに聞いて、どうしてよいかわからず、一度仏門に入ったの。でも乳母がうるさいものだから、最近還俗したのよ」
私は口から出任せを言った。
右近は少し首を傾げたものの、信じたようだ。
「ところでここはどこなの」
「京の五条にある、私の家でございます」
右近は、寝台のそばに整えられていた着物を手にして、「まずはお召しかえを」と言った。
右近に着物を着せてもらったが、その重いこと。十二単ではないものの、着物を四、五枚重ねるのだ。でも足は足袋を履くのではなく、裸足だ。スーツや靴、ハンドバッグは、白木作りの箱に仕舞われた。
着替えが済むと、右近は女童(めのわらわ・女の子の召使)に食事を持ってこさせた。ご飯に、酢の物、汁物、などの簡単な料理だったが、空腹だった私はぺろりと平らげた。
「それにしても、乳母は一緒ではなかったのですか」
食事が終わると、右近は尋ねた。
「途中まで一緒だったんだけど、はぐれてしまったの」
私は、涙を拭う振りをした。お腹が膨れて、欠伸が出そうになり、本当に涙目になった。
「源氏のおとども、お喜びになるでしょう。今私は源氏のおとどにお仕えしているのです」
おトド?
一瞬、意味がわからなかったが、源氏の大臣(おとど)か、と頭の中で漢字変換できた。「夕顔さまが亡くなられた時も、大変なお嘆きで、姫さまのこともずっと気にかけていらっしゃいました。落ち着かれましたら、お目通りをしなくては」
ともかく、物語は進行し始めた。
私は平成の派遣社員から、平安時代の姫君へと転職したのだ。
| 固定リンク











コメント