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部屋に荷物を置くと、私は服を脱いだ。
カーテンは閉めたまま、電気を点けた。部屋の空気は、少しだけひんやりとしている。
鏡に裸身をさらす。
体をひねり、側面や後ろも映してみる。首、胸、腕、背中、臀部、脚……。一つ一つのパーツを点検していく。十本の指先で、体をなぞるように触ってみる。違和感はない。指先に次第に力を込めて、掌全体で体を擦る。腕を強く抓ってみた。痛い。抓った部分が、うっすらと赤みを帯びた。皮膚の下に、青緑色に透ける静脈。
少し痩せて、筋肉も落ちているけれど、今日退院したばかりなのだから当たり前だ。あとは以前と変わりないように思える。今までこれほど入念に体を観察したことはないけれど。
三ヵ月前の事故が、嘘のようだ。
出勤途中で、私は車のスピードを出しすぎ、対向車と接触しそうになった。パニックになってあまり覚えていないが、車は道路沿いの塀に叩きつけられ、炎上したらしい。私はすぐに病院へ運ばれたが、肋骨と大腿骨を骨折し、全身に火傷を負っていた。
滑らかな皮膚をもう一度触ってみる。傷跡もない。完全な肉体。完璧な。
大量の輸血、そして皮膚の移植。
最善を尽くした、と担当の医師は誇らしげに言った。
そう、私は『復元』された。
数分間裸でいたら、鳥肌がたった。絨毯の上に脱ぎ捨ててあった衣服をゆっくりと身に着ける。腕を上げても膝を曲げてもどこも痛くないし、皮膚は弛んだり引きつれたりしない。肌の色や手触りも、事故の前と同じようだ。培養皮膚を移植したとは、とても信じられない。
Tシャツから覗く、健康そのものに見える腕。
人の口腔粘膜を培養して皮膚を作るという研究は、以前新聞やテレビで見たけれど、まさか自分が移植を受けるとは想像もしなかった。
普段は忘れているのに、移植手術のことを考えると、自分の存在自体が薄気味悪く感じる。私の体を覆っている皮膚は、もともと誰の細胞だったのだろう。
そんなふうに考えてしまうのも、事故の後遺症なのだろうか。大きな事故の後は神経質になる人もいる、と医師から聞いていた。
私のような広範囲の火傷を治療する場合、健康な部位の皮膚を患部に移植できないため、培養皮膚を使うのが一般的なのだそうだ。現在では、培養した皮膚をシート状に保存しておく技術も確立されているらしい。
鏡にくっつくほど顔を寄せた。顔や首には、少しは元の皮膚が残っているはずだが、どこまでが自分のものなのか、全く見分けがつかない。見つめ続けていると、以前の自分がどうだったか記憶まであやふやになりそうだ。息で鏡が曇って、私は呪縛が解けたように鏡から離れた。
きれいに治っていることが不安なんて、贅沢な悩みだ。傷跡があれば、うろたえたり悩んだりするのはわかりきっている。私はたぶん納得したいのだ。でも、一体何に?
窓を開け放つと、眩しい陽射しに一瞬目が眩んだ。強い風が室内の綿埃を吹き飛ばし、よどんだ空気を塗りかえていく。幾何学模様のカーテンが勢いよくはためいた。私はカーテンの模様があまり目に入らないように、タッセルでくくった。落ち着かない気分にさせる何かが存在するのだ。
カーテンだけではない。毛足の長い絨毯も、数少ない食器さえ、神経に引っかかる。どれも一人暮しを始めたときに自分で選んだ、ささやかな生活のためのものだ。
長い間部屋を空けていて生ずる違和感ならば、もう消えてもいいはずなのに、ざわざわとした気持ちは膨らむ一方だ。ここでどう自分が過ごしてきたかも覚えているのに。
歩くたびに足裏に絨毯がべたついて感じるのは、埃のせいだけではなさそうだ。皮膚が変わって、自分の感覚や好みまでも変化してしまったのだろうか。それとも、大量の輸血のせいだろうか。部屋全体が、主はお前ではない、と主張している。
マンションは静まりかえっていて、自分のたてる物音しかしない。今まで全然交流はなかったけれど、隣の人たちはどうしているのだろう。
一人ぼっちというより、自分の亡霊と向かい合っているような気がした。これから私がどうするのか、どうなっていくのか、観察している。
埃のせいか喉がかれて痛み、暑くもないのに、いつの間にか掌に汗をかいていた。
ケトルにお湯を沸かす。お湯が沸くまでの間に、冷蔵庫の中の腐ったものや賞味期限を過ぎたものを次々にゴミ袋に放りこんだ。洗濯機にシーツとパジャマをまとめて放りこみ、スイッチを押した。
考えなければという気持ちと何も考えたくないという気持ちが錯綜している。この部屋から以前の自分を追い出してしまおうというつもりもないけれど。
ケトルがやかましく音をたてるまでわざと放っておいた。食器棚に入っている、アールグレイの大きな紅茶の缶を無視して、一番シンプルなカップにインスタントコーヒーをいれた。火傷しそうに熱いコーヒーが喉を下っていく。以前の私は、ほとんどコーヒーを飲まなかった。
コーヒーを飲み干すと、キッチンから大きな鏡のついた洋服ダンスの前に戻った。
洋服の趣味は変わってないが、タンスの中の衣類を身に着けることを考えると、生理的に嫌だ。今着ている服も、病院の売店で買ったものだ。
医師の言う通り、事故のショックで一過性のものなのだろうか。わからない。わからないけれど、これからも生きていかなければならないことだけが、確かなことだった。
留守番電話のランプが点滅している。再生すると、何件かのメッセージの後、聞き慣れた友達の声が流れ出した。
病院へ見舞いに行ったけれど、まだ面会できなかった、退院したら連絡してほしい、という内容だった。出張の日程と休みの日も事細かに入っている。
今日はちょうど彼女が休みの日だった。私は少しためらった後、受話器を手に取った。
携帯の電話番号をそらで押すと、すぐに彼女が出た。
「体は大丈夫?」
柔らかくてゆったりした彼女の声を聞いた途端、私は心がほどけていくのを感じた。まあるい笑顔も思い出した。
「もう、大丈夫」
明るく答えて、自分で自分のしっかりとした声の響きに勇気づけられる。
彼女も弾んだ声になって、すぐ会える? と聞いた。
「お茶でも飲もうよ」
いいね、と私は答えた。待ち合わせ場所を決めて、受話器を置いた。
窓から見下ろすと、道路には車が走り、たくさんの人が行き交っている。振り返って鏡を覗くと、その中の私は最初より柔らかい表情になっている。もう一度、滑らかな自分の皮膚に触れる。ゆっくりと、なぞるように。
化粧をしようかと迷ったけれど、やめた。ファンデーションも日焼け止めさえつけないで、リップクリームだけを塗った。少し、怖いけれど。たぶん、彼女は大きく手を振って、いつもと変わらない笑顔でこう言うだろう。元気そうね、と。
玄関でスニーカーの紐をきつく結ぶ。深呼吸すると、私は部屋の扉を開けた。
外は眩しく、陽の光に満ちていた。
(了)
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